増毛町信砂御料 S氏の証言



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信砂御料集落で印象深い「苗字が描かれたサイロ」(平成21年5月3日撮影)と、現在の「苗字が描かれたサイロ」

私は昭和31(1956)年に生まれた。信砂御料に戦後入植した人の多くは大阪出身であった。
自宅は元々、土壁の古い家であった。昭和29(1954)年の洞爺丸台風のときに家が壊れそうになったので、自宅を新築した。

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信砂御料集落入口の「御料橋」

食料品は「三栄食品」がバスで行商に来ていた。大抵は行商で済ませていたが、行商で買えないものは留萌か増毛まで出た。
昔は農協(増毛農協)でツケで買うことができたので、ツケで買ってから一括清算した。

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電柱に残る「信砂御料」の名前

小5(昭和42 1967)年に学校給食が始まり、家から牛乳を出せといわれ牛乳をバイクに乗せて学校まで運搬した。
この頃に歩古丹小学校に一泊したことがある。体育館のような部屋(教室)にゴザを敷いて一泊した。

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信砂御料小中学校跡

小6(昭和43 1968)になると父にクルマのハンドル操作を覚えさせられた。
中1(昭和44 1969)には既にクルマを運転していた。
お祭りには、集落の人々をトラックの荷台に載せて運転した。お祭りは神社で子供や大人の相撲大会が行われ、夜は学校で映画を観た。運動会になると集落総出で大人も子供も入り混じっていた。

学校は複複式だったので、15分くらい勉強したらあとは自習だった。
学校で勉強したことよりも家で働いていたときのほうが思い出がある。

例えば、水道を山の貯水池から引っ張ってパイプで繋げていく作業や敷地内に張り巡らされている電牧(電気牧柵)の草刈作業などをやった。
家では牛を21頭飼っていたが、そのうち8頭くらい家族分担で乳絞りをやった。ランプのほや磨きやガス磨きは日常であった。
牛のほかに畑作(イモ)をつくっていたが後になって、信砂に水田を借りてコメもつくっていた。

向かいの家(Sさん)にマージャンを教えてもらったことが切っ掛けで始めたが、集落じゅうの人から「マージャンを教えてくれ」と言われ、集落に広めた。

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学校裏にあったスキー場跡

信砂御料は雪が非常に多かった。自宅は、学校よりも数キロ奥にあった。
学校までは道路の除雪がされていたが、学校より奥はされていなかったので毎日スキーで通学した。
雪が多いので、屋根の雪下ろしも日課だった。屋根の軒を蹴ると雪が落ちていくが、雪と一緒に落ちたこともあった。
しかし「落ちたって死なない」と思っていたので屋根でも飛んだり走ったりした。玄関は雪で埋もれていたので、窓から出入りした。

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スキー場頂上付近より信砂方面を望む

中学2年(昭和45 1970)年に留萌へ転出した。信砂御料で条件のいいところに入植した人は良かったが、条件の悪いところに入植して離農していった人は大変だったかもしれない…。

写真 平成21年5月3日撮影以外の写真は平成29年3月14日撮影
聞き取り 平成28年8月28日 旭川市内
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プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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