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小平町滝下東和

小平町滝下東和(平成28年10月10日・平成29年4月19日・4月25日探訪)

小平町滝下東和は農業から始まり、後に炭鉱で栄えた集落である。

明治39年御料1線から24線までの農地区画割測設が実施され、翌40年から農地として貸し下げることになった。
しかし、御料の区域があまりにも広大すぎることから明治41年12月特別教授場を2か所(うち1か所は私設校)開校、校名は小平蘂御料第2特別教授場と称した。
大正4年より小平蘂御料第一教育所(後の達布小学校)所属となり大正13年、校舎を御料13線に移転した。
昭和8年5月に滝下尋常小学校と改称、昭和16年4月滝下国民学校と改称。
昭和21年1月、失火により校舎全焼のため子弟らは営林署の小屋を借用したり、上記念別国民学校へ通学した。
昭和22年春、個人家屋を購入したうえで改造移転し、ようやく落ち着きを取り戻したが、教室が狭いため翌23年に増築、また昭和24年5月に閉校した上記念別小学校校舎を移転させ、職員室や教室に充てている。
昭和25年、中学校併置の認可が下り、27年7月まで共生した。
昭和31年11月、炭鉱開発により児童数が増えたため校舎を中学校へ移転した。
昭和38年より東和小学校と改称した。
昭和33年より日本炭業 達布福久鉱の採炭が始まり児童数も増えていったが、昭和42年7月で閉山した。
閉山後、農家以外の住む人は激減し僅かに残った児童も学校周辺にクマが出没したため自衛隊が児童の警護に当たり、昭和43年3月末に閉校となった。
学校の沿革をまとめると以下の通りである。

小学校
明治41年 特別教授場を2カ所(うち1カ所は私設校)開設・小平蘂御料第2特別教授場として開校(12月)
大正 4年 小平蘂御料第一教育所所属となる
大正13年 御料13線に移転改築
昭和 8年 滝下尋常小学校と改称(5月)
昭和16年 滝下国民学校と改称(4月)
昭和21年 校舎全焼(1月)
昭和22年 個人家屋を購入、改造移転(春)
昭和23年 校舎増築(10月)
昭和24年 閉校した上記念別小学校の校舎を移転付設(5月)
昭和31年 東和中学校に移転付設(11月)
昭和38年 東和小学校と改称
昭和43年 閉校(3月)
 
中学校
昭和25年 東和中学校開校(小学校と共生)
昭和27年 校舎移転(8月)
昭和43年 閉校(3月)

炭鉱が閉校し、生徒が減少する一方でクマの脅威があった。これから紹介する記事は、自衛隊がクマの掃討作戦を行い、児童生徒らをトラックで輸送する記事である。

自衛隊が山岳機動演習 奥地に追い込むクマ正面対決は避けて
「ヒグマの出没におびえる小平町では被害を未然に防止するため、留萌支庁を通して自衛隊の出動を要請していたが、留萌第26普通科連隊では6日から11日までヒグマの出る同町奥地一帯で山岳機動演習を実施ヒグマ掃とう作戦を支援することになった。
演習に参加するのは池田連隊長以下隊員600人と車輛60台、これから行う暑寒別岳その他で実施計画中の山岳訓練を変更して達布地区に集中して行うことにしたもので、部隊は達布、寧楽、滝下、下記念、川上などにヒグマの出没する地区に分かれて、夜は山中に天幕を張り幕営。6日間にわたって山岳戦を展開、推定30頭に上るといわれるヒグマを部落周辺から山中深く追い払う作戦である。尚池田連隊長は作戦準備のため4日現地を視察した。」

通学輸送始まる
「最近連日のようにクマの出没する小平町滝下地区で4日から自衛隊トラックによる児童生徒の通学が始まった。
 同町市街から約40キロ奥の滝下、川上地区は、けわしい山に囲まれた山村地域。最近20回程度に亘ってヒグマが水を求めて住民を脅かしているが、4~5キロもある山道を歩いて通学している児童生徒は、いつクマに襲われるかわからない-と町が支庁を通して要請したもの。これら川上小、東和小中の学童68人をクマの危険から守るため、4日から留萌自衛隊第1中隊の大倉3曹ら6人の隊員が東和小中学校に泊まり込みで生徒のトラック輸送を始めた。登校時の朝8時ころと下校時に、大型トラック1台で生徒を送り迎えしており、12日まで実施する予定だ。」上記2記事 日刊留萌新聞昭和42年9月5日

追込み作戦成功するか 600人が山岳戦 自衛隊達布地区に出動
「陸上自衛隊第2師団第26普通科連隊の山岳機動演習が、6日から小平町奥地の達布地区で始まった。
同訓練は当初暑寒別岳などで実施する計画であったが、小平町の要望もあってヒグマの出没におびえる達布地区で集中的に行うことになったもの。訓練には池田連隊長をはじめ、隊員600人と車輛約60台を動員。毎日のようにヒグマの出る達布、滝下、川上など4か所に設営、11日まで6日間にわたって実戦さながらの訓練を展開する。
 同地区一帯に7月末から推定30頭にのぼるといわれるヒグマが出没、学校生徒も自衛隊のトラックで通学するほど、部落住民は山オヤジの危険にさらされている。このようなことからクマ退治も兼ねた山岳訓練を行うもので、夜は山中に幕営、クマを山奥に追い込む奇襲作戦を行う。」
食糧現地で購入 連隊長の親心
「ヒグマの恐怖におののいている小平町達布地区住民を救うため自衛隊留萌駐とん部隊は6日から11日まで同地区で大がかりな山岳機動演習を開始した。
いつもの演習なら隊員めいめいが携行食糧を持参するのだが、今度は兵たん部を異動主食の米を除いてすべて現地調達で賄うことになった。
 これは炭砿、鉄道の閉鎖で達布の商店が困っていると聞いた池田連隊長が少しでも地域の人たちのためになればと親心を示したもの。何分600人からの部隊となると副食品や酒、甘味品(お菓子)煙草だけでも1日数万円はかかる。これを現地の商店や農家から買い上げて部落の人たちのふところを暖めようという趣向だが、思わぬ現金収入に部落の人たちも大歓迎、これを機に自衛隊に親近感を増すのではなかろうか。」上記2記事 日刊留萌新聞昭和42年9月7日

閉校式の記事を掲載する。

60年の歴史を閉ず 閉山で生徒激減 東和小中校で廃校式
小平町東和小中校の廃校式は、17日在校生29人、藤田校長ら教員、PTA、五十嵐町長、佐々木教委々員長ら来賓およそ100人が出席して同校で行われ、明治41年分校として開校してから60年間、446人の児童・生徒を送り出した歴史を閉じた。
 廃校式は17日午前10時30分から同校講堂で行われ、開式の後物故者の霊に黙とうを捧げた後、五十嵐町長が『みなさんの教育環境を良くすることに決めました』と廃校の理由を交えた式辞を述べ、藤田悌三校長が「東和校の教育目標である健康、勤労、自主創造、奉仕の4つを忘れず、達布校でも元気に勉強してください」と別れの言葉を述べ、竹村議長、町内校長会、東和校PT会長らが生徒を励ました。
 続いて五十嵐町長から歴代校長、PT会長、職員代表、生徒代表らに記念品が贈られ、生徒を受け入れる本間達布小校長と石崎同中学校長が「安心して達布にきてください、4月5日を待っています」とお迎えの言葉が述べられた。これに対し小学校代表の小学5年の三好明美さんが「滝の下で炊事遠足をしたことなど思い出は尽きません、学校は移ってもわたくしたちを忘れないでください、わたくしたちは転校して早く新しい学校になじむように努力します」中学代表の1年大屋慶治君も「炭鉱閉山がぼくたちの学校の歴史を変えてしまいました。しかしぼくらは東和で学んだことを一生忘れません」とあいさつ「つきせぬ小平の清流に、まことのちかいうつしつつ、かたき友情たからかに、こだまとひびく・ああ東和、われらが母校に光あれ」の校歌、続いて蛍の光を一同が合唱して廃校式を終えた。校歌と蛍の光を歌い終わるころ、大屋PT会長が感慨深く涙を流し女教師が声を出して泣いて閉山という社会の動きに廃校に追いやられた同行の閉鎖を惜しんでいた。」日刊留萌新聞昭和43年3月19日

KIMG0471.jpg
達布地区を通り過ぎ、おびらしべ湖(ダム)に来た。
このダムの底に、移転前の滝下小学校や集落が広がっていた。

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ダム湖畔を眺める。

CIMG9118.jpg
おびらしべダム湖畔の「小島」
この「小島」こそ、かつての滝下神社があった場所である。

CIMG9150.jpg
移転先の東和小中学校跡付近。
すっかり自然に戻っていた。

余話
戦後、滝下東和地区の隆盛を極めた日本炭業 達布福久鉱の入り口はこちらである。
KIMG1416.jpg
航空写真で確認すると、この林道のはるか先にコンクリートの遺構らしきものが写っていた。
しかしあまりに奥であることやクマ出没地帯なので、単独で行くのは止めた。

参考文献

日刊留萌新聞1967「自衛隊が山岳機動演習 奥地に追い込むクマ正面対決は避けて」「通学輸送始まる」日刊留萌新聞昭和42年9月7日
日刊留萌新聞1968「60年の歴史を閉ず 閉山で生徒激減 東和小中校で廃校式」日刊留萌新聞昭和43年3月19日
小平町史編集室1976『小平町史』小平町役場
鈴木 トミヱ2000『小平百話‐記憶の中の物語‐』小平町開基120年記念事業実行委員会
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ようやく確証が持てました。というか「滝下東和」知らなかったです!

上記念別に学校があったってのは聞いたことがあったんですが、
それがダムの湖底にある学校だと思っていたので、
東和というところの学校だとは想像だにしていませんでした。
ありがとうございました。
・・・林道奥にかなり大きそうな炭鉱がありそうですが…はじめっち

今(って言っても20年以上前だども)はトンネルもできて、冬でも通れるけど、
霧立ば見た後に、達布方面に行く途中でダムに寄ったけれども、
資料・史料・旧地図などがもちろんなくて、「川上でねぇの?」って、
3人で迷走したことばよく覚えているっす。あったらしい牧場みたいなんがあって、
「ここ、どこの集落なんだ?」ってダムと牧場を行ったり来たりして、まわり人もいないし、
勝手に牧場さ入って病気もちこんだら、えらいこったし、自分らの謎の一つだったのす。
・・・行ったり来たりでもしかして「不審者ロックオン」されてたかもしれないすゆたか




Re: ようやく確証が持てました。というか「滝下東和」知らなかったです!

はじめっち&ゆたかさま

コメント有難うございました。遅くなってしまい申し訳ありません。
上記念別の学校は確かにありましたが、閉校が古いためここでは取り扱っていません。
跡地らしき場所も訪ねてみましたが、痕跡はありませんでした。
十五線沢林道の奥に行けば炭鉱の遺構が残っている可能性が高いですが、一人では行きたくないですね。

地形図も何も持ち合わせていないときに集落名を簡単に調べる方法は、電柱を見ることです。
電柱に地域名が書かれていますので、それを見れば分かります。ご参考になれば幸いです。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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