稚内市峰岡

稚内市峰岡(平成29年9月16日探訪)

稚内市峰岡は漁村集落である。

開拓が始まった正確な年代はわからないが『稚内市史第2巻』によれば「明治20(1887)年か同14(1881)年ころ」と書かれている。
また昭和8年の様子について次のように記されている。

「戸数30戸、耕地20町歩、耕作3戸、金比羅神社、衛生組合、森林防火組合、火災予防組合、道路保護組合、納税貯金組合、時前青年、女子青年団、在郷軍人分会…(中略)ラジオ設置家1戸、農牧場40町歩、馬4頭、沃度工場、商店2、宿屋1、飲食店1、回漕業1…」(『宗谷村郷土史編さん原稿』昭和8年版)

さらに『宗谷村政要覧昭和10年度版』には時前(時前漁港)から原野(時前原野)を経て下増幌へ抜ける殖民軌道予定線(未成線)が地図に表記されている。
言葉を変えれば、それだけ多くの人々が暮らしていたのである。

ここで、峰岡の集落や学校について触れられている新聞記事を掲載する。

国境辺地を行く 走る公民館同乗記 映画みる唯一の機会 歩ける部落民は全部集まる
「【稚内発】辺地部落の社会教育振興を目的とする道教委の〝走る公民館〟は今年も8月27日から宗谷管内巡回の途についているが記者は宗谷事務局のはからいで関三次郎事件で一躍国際的視聴を浴びた宗谷村字峰岡、字東浦両部落を訪れた。以下は〝走る公民館〟による国境辺地同乗レポ。
○…1日午後3時走る公民館は今日の目的地峰岡小学校に向けて宗谷村役場を出発する。同乗するのは道教委宗谷事務局長谷川社教主事、岡崎技師、道教委江本運転手、宗谷村石川教育長代理、同佐藤社教係長、記者の6人。車はネズミ色の車体に鮮やかな黄色で彩られた〝走る公民館〟の五文字を快晴の秋空にきらきら光らせながら時速50キロの快速で街道をひた走る。ところどころコンクリート舗装を施した宗谷国道は格好のドライヴウエイだ。
『皮肉ですなあ宗谷村のほうが稚内市より道路が良いとは』と快適な乗心地に思わず記者が嘆声をもらすと『こんな道路は珍しいですよ。昨日の上増幌、初日の修徳、咲内ときたら話になりませんでしたよ。特に咲内ときたら近所の農家からスコップを借出してやっと道を切開いたんですよ』と同乗の人々はいっせいに記者の不認識をなじる。
○…そういえば車は小型トヨペットだ。辺地が対象なだけに物々しくて派手な弘報車ではどうにもならないのだと江本運転手は語る。
峰岡街道の急傾斜に差掛かると車は突然あえぎはじめる。ホームライト、映写機、幻灯機、展示品など総計80貫という重い積荷が急に物をいいだすのだ。モウモウたるホコリが左車内に流れこむ。右の風防が2枚壊れて修理が施されていない。いまの予算ではとても手が出ないという。
○…午後4時過ぎ車はようやく峰岡小学校にたどりつく。真黒に日焼けした約80名の同校児童たちが、野性的な目をギラギラさせながら物珍しげに寄ってくる。変にたい廃し切った都会の文化なんてものを一度も受けたことのない澄み切った顔だ。午後7時映画開始が当初の予定だ。しかし手持ちの映写機は前開催地上増幌で故障を起したままだ。再び車は休む暇もなく枝幸町教委から送り届けられるはずのナトコ映写機を受け取りに約4里離れた鬼志別駅に向け出発する。
北辺の日暮れは早い。午後7時日もとっぷり暮れ切った2教室程度の狭い同校運動場に約150名の部落民がひしめく。同校校長の話では乳幼児、足腰の立たない年寄りを除く全部落民が集ったのだという。『常会の時もこれだけ集ったらいいんだけどなぁ』『何せ無電燈地帯ですからね。隣部落まで映画見物に出掛けて行く青年層を除いては年1回の走る公民館よりも映画観覧の機会を与えてくれるものはないんですよ』と部落民の2,3が語る『ウソみたいな話しですけれど去年のやはり今ごろ〝走る公民館〟がこの部落へきた時です。〝さあ始めます〟といって機械を動かしたら年寄り連中がいっせいに映写幕を見ず反対に映写機の方向へ向きを変えたのにはびっくりしましたよ』とは技師の話。
9時映画開始、漫画『ウサギと亀の決勝戦』『馬喰一代』が終わったのは11時過ぎ、運動場の黒板に大書きされていた来週の作文宿題『走る公民館』の文字と点々と散在しているランプの燈、それがこの村をシンボライズしているように全く印象的であった。
○…2日早朝〝走る公民館〟は本日の開催地東浦部落向け峰岡小学校を出発する。昨夜記者たちの部屋を訪れて映画の成功を祝してくれた一部落民の言葉が次々に浮かび出てくる『太平が天国にいるお母さんに手紙をあげるんだといってお雪からもらった風船玉に手紙をつけて青空高く飛ばしているシーンなんて本当に胸がいっぱいになりましたね』(馬喰一代の一場面)善意そのものの米さん(馬喰一代の主人公)にまさっても劣らない部落民の誠実に幸あれと祈りたい気持ちでいっぱいである。
車が東浦山道にさしかかると道路の両側にはうっそうたるエゾ松林が続き、名もない3,4尺の黄色い野花と寂しいススキ草が散在する。『東浦海岸に上陸した関三郎はこの街道を通って峰岡のバス停留所に向かったんですよ』と同乗の誰かが語った時『ああ山ハトだ』と隣が叫びびっくりして前方をみると聞きなれぬ自動車のごう音に驚いたのか2羽の山ハトが左側の松林に飛び去るのが目に止った。
平和の象徴の山ハトと国籍を失ったスパイ容疑者関。何かしら重苦しい雰囲気が車内にあふれる。
○…目的地東浦小学校に到着した一行は早速昨日と同様同校児童約40名を対象にテープレコーダーによる唱歌吹込みと紙芝居『シンデレラ姫』『あぶちゃんと三平』などを上映し、午後から植淵道教委社教指導主事の講演、引き続き夜は映画上映を行って当会の日程を閉じたが、この夜も会場の生産組合倉庫には夜の更けるのも知らずに笑いさざめく部落民の声がオホーツクの潮騒と融け合っていた。」(「北海道新聞」昭和28年9月8日)

閉校時の新聞記事を転載する。
名残り惜しむ部落民 消える峰岡部落 淋しさこらえて「蛍の光」学校閉鎖とあわせ解散式
「部落ぐるみで移転することになっている稚内市峰岡の部落解散と、小中学校の閉校式は、部落の開基80年、小学校創立60年の記念式典とあわせ、1日午前11時から同校で行った。出席した部落民や生徒は「蛍の光」で別れを惜しみ、サイダーやジュースでお互いの健康を祈りあっていた。
同部落は稚内市の最東端にある。明治20年頃から開拓のクワが入れられ、ホタテの「貝場」、ニシンで栄えた。また戦後の外地引揚者も数多く入り、一時は戸数60戸、人口は400人にもなったことがある。しかし、漁業資源の不足、花嫁不足、後継者難の社会情勢から、他地区への転出が相次ぎ、現在では一般住宅5戸、先生の住宅3戸、人口わずか31人に減少している。生徒の数もわずか9人で、そのうち1戸から6人が通学している状態。
部落民は数年前から漁港の建設、船揚場の設置などを市へ要望していたが、衰退する部落の姿から「巨費を投じる価値がない」と判断、市議会などとともに部落の移転が将来のため―と住民に諮った。先祖の代から住みついでいる部落民は、はじめ部落閉鎖という事態にかなり強い難色を示していたが、宮本岩太郎部落会長らが中心になって話合いを続けた結果、移転費さえ補償されるならとこの移転案に同意、この日の部落解散式となったもの。
 全国的にも例がないこの解散に、市でも異例といわれる移転補助金を13戸分700万円を計上、今議会で承認を得ることになっている。
 現在部落に残っている5戸も遅い人でも11月中には移転し、生徒も今月10日過ぎまでには他へ転校する。したがって、この日の解散式、閉校式後若干の間は部落も存在するがその後は完全に無人化状態になる。
この日の式典には、部落民や峰岡出身者など約40人、それに来賓などが出席。最後の別れを惜しんだ。浜森市長も「消滅するための解散ではなく、将来に向かって発展するための解散であってほしい」と部落民を激励していた。
部落の発展や学校のためにつくした宮本岩太郎氏ら多数に感謝状と記念品が贈られた後、残り少ない生徒たちが「ああ、美わしきわが故郷(さと)よ」と校歌を唄い、また参加者全員で「蛍の光」を唄って、つきぬ名残りを惜しんだ。」(「日刊宗谷」昭和44年9月2日)

学校の沿革は以下のとおりである。

小学校
明治42年 時前教育所として開校(5月)
大正 6年 時前尋常小学校と改称(6月)
昭和16年 時前国民学校と変更(4月)
 同年   峰岡国民学校と改称(9月)
昭和22年 峰岡小学校と改称(4月)
昭和44年 閉校

中学校
昭和24年 大岬中学校峰岡分校として開校(5月)
昭和27年 峰岡中学校と改称(4月)
昭和44年 閉校

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宗谷管内の廃校廃村を巡る旅、メインである稚内市峰岡。
ここから学校までは徒歩約20分と見積もって歩きはじめた。

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歩き始めてから少し経ち、地形図に書かれた「墓地マーク」のポイントに来た。
明治時代からある集落なので、学校と神社、墓地は集落に「なくてはならないもの」である。
その墓地は植林されていた。

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墓地を後にして先へ進む。

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学校跡へ近づいてきた。

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峰岡小中学校へ到達した。
へき地4級、日本最北の「学校跡がある廃村」である。

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周辺には水道関係の基礎や教員住宅の基礎、瓶などが転がっている。

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学校と神社・その先にあった桃尻集落へ続く橋の基礎。
尚、「桃尻」は「モムジリ」と読む。

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瓶が転がっている。
平坦地が所々に広がっているので、屋敷跡の決め手にもなる。

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学校の背後にあった神社跡へ進む。

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しかし。背丈以上のササがびっしりと生い茂っていた。
これでは前に進むこともできない。

諦めて移転前の学校跡地へ行くことにした。

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地形図を見比べると、移転前の学校は神社の隣接地に文マークがしるされている。
校舎・校庭があってもおかしくない広さである。

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学校の入り口らしき跡には松の木が生えていた。

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移転前の校舎跡より移転後の校舎跡を眺める。

学校の校門と、木製の橋脚が集落の名残を伝えていた。

参考文献
宗谷村1935『宗谷村勢要覧 昭和10年版』宗谷村
稚内市史編纂室1968『稚内市史』稚内市
稚内市史編さん委員会1999『稚内市史第2巻』稚内市
北海道新聞1953「国境辺地を行く 走る公民館同乗記 映画みる唯一の機会 歩ける部落民は全部集まる」『北海道新聞』昭和28年9月8日
日刊宗谷1969「名残り惜しむ部落民 消える峰岡部落 淋しさこらえて「蛍の光」学校閉鎖とあわせ解散式」『日刊宗谷』昭和44年9月2日
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No title

 移転前の学校と神社付近に行ったんですね。私が行った時は強風で笹がガサガサと大きな音を立て
熊がいても気が付かないと思われる音で、学校跡付近で引き返しました。車で行けるか分からず私も
歩きました。車で行けばよかったです。

Re: No title

K・Tさま

コメント有難うございました。あの日は友人と訪ねたので、単独でしたら移転前の学校跡には行ってなかったかもしれません。
学校までの道は悪いので、徒歩のほうが良いと思います。

「峰岡」に関係ないことまでホントすいません

40年位前に、観光ガイド本「ブルーガイド 北海道」の欄外コラムに「峰岡」が無住区になったことが
記載されて以来、ちょっち行ってみたいと思ってましたが、とうとういけませんでした。
それでも20数年前に自転車でR238を南下する途中に、「峰岡団体(峰岡集落かも)」という
立派な「青看板」があった(ように思えてだけかも)ので、入っていこうかと思ったのですが、
自転車が下りでいいスピードが出ていたのと、やっぱちょっち怖かったのでスルーしちゃいました。
貴ブログ拝見して思いました、「(一人で)いかなくてよかった!」
・・・「パンク」も「クマ」も怖いはじめっち

家さ帰って、すぐ稚内の「上増幌」「修徳」「咲内」調べてみたのんす(勉強さきらいだども)。
「『修徳』ってば、たぶん『上修徳』んことでっしょ」「いや、ホロカ川の『修徳』です」
「『上増幌』『中増幌』『下増幌』と『恵北』の位置関係と学校がわかんないのだ。
『恵北小学校』と『増幌小中学校』はおんなじなんか?、ばかだからわからんのだぁ!」
「『咲内』ってないけど、『若咲内』のことかな?」「『珊内』ってあるけどこれじゃねっか?」
「んでも資料じゃ、『宗谷村の道路は稚内よりいい』ってあるから、宗谷岬近くの『珊内』でないと思う」「音は似てるべ」
っとまあ、4匹でけんけんごうごうだったのっす(地名辞典、宙とんだのす)。
というわけで、貴ブログ本文は今日の今、最後まで通しで拝見している状態なのす。
・・・下調べしないと動けん4ばかなのすゆたかすんません忘れてくださいす

あたいはむずかしいことはよくわかんないけれども、いま『桃尻』ってねっとでしらべたけんども、
なんか『桃尻娘』くらいしか載っていなくって、「そりゃそうだw」ってばかにされたのだ。
くやしいから、いちお、あたいなりにがんばって出した答えが、
『モムジリ』の写真と「音」の感覚から、『モ・(m)モシリ』(ちっこい『島』でなく丘?・山?)」
かなって、勝手に思って「よくがんばった、いいこいいこ」と自分ほめてるのだ!
・・・でもきっとまとはずれなのだつるみんだって「島」じゃないもん

いまでも、市町村教委と各校の教務職員を中心に、年一回の「観劇」とかいう行事に何を見せるか、
どの団体を呼ぶとか、会議を持つという話を聞いたことがあります(国語・音楽の時数で処理)。
おそらく今では児童生徒のみの参加になっているのでしょうが、むかしは学校行事だけではなく、
地域行事でもあり、文化振興の上でも重要だったことがうかがえました。ありがとうございます。
・・・それだけ僻地の「外の世界」を見る機会は大切だったんですねみならいかのん



Re: 「峰岡」に関係ないことまでホントすいません

はじめっち&ゆたか&つるみん&みならいかのんさま

コメント有難うございました。観光ガイド本の掲載、そして「峰岡団体?」の看板は初耳です。
桃尻、名前を聞くとドキッとしますが現地への道のりはきびしいです。宗谷管内の地名も、峰岡を訪ねる際に出来るだけ頭に叩き込んで覚えました。
「走る公民館」は、クルマに視聴覚機材を入れてへき地の学校を走り回っていました。公民館の元祖です。
走る公民館の同乗記を読みますが当時の道路事情、へき地の日常が描かれています。

お尋ねします

父親の出生地が戦前の峰岡です。時々資料がないか検索してまして、こちらに来ました。
昭和50年代に親せきと時前川の河口まで行きましたが、当時でも壊れそうな橋でした。
掲載されていた写真は2017年の現況でしょうか。

父によると戦争の影響で一時峰岡(当時は時前と言っていたようですが)は強制疎開させられ、
時前を離れたと言っていたのですが、そういう記述のある資料には行き当たりません。
もしどこかで見かけられたらお教えいただけないでしょうか。

Re: お尋ねします

Kenさま

お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。
お訊ねの件ですが、写真は2017年9月に撮影したものです。
強制疎開の件は初耳です。一度、稚内市教育委員会にお訊ねした方が良いかと思います。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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