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稚内市峰岡

稚内市峰岡(平成29年9月・令和元年10月・11月・令和2年3月探訪・大幅改定)

稚内市峰岡は漁村集落であり、元々は時前と称されていた。
開拓した記録は明治10年や、14年、20年と言われており特定はできないが、明治時代初期には人々が暮らしていた。
学校は明治41年9月5日、森田源太を主唱として玉木儀八郎、岩谷秀太郎、森田来治等の尽力により宗谷村大字泊内村トキマエ番外地に間口5間、奥行2間の教育所校舎を設立した。翌明治42年5月29日、公立時前教育所として認可された。この当時の戸数は13戸、児童は19名であった。

学校の沿革は以下の通りである

小学校
明治41年 私設教育所を設立(9月)
明治42年 時前教育所として認可(5月)
大正6年  時前尋常小学校と改称(3月)
大正13年 猿払村立知来別尋常小学校苗太路特別教授場、時前尋常小学校所属となる(1月)
昭和3年  苗太路特別教授場、苗太路尋常小学校と独立(5月)
昭和16年 時前国民学校と改称(4月)
 同年   峰岡国民学校と改称(9月)
昭和22年 峰岡小学校と改称(4月)
昭和24年 校舎新築移転(12月)
昭和42年 峰岡家庭教育学級開校(12月)
昭和44年 閉校(9月)

中学校
昭和24年 大岬中学校峰岡分校開校(12月)
昭和27年 峰岡中学校と改称(4月)
昭和44年 閉校(9月)

集落の主要な出来事
大正12年 本校訓導兼校長 小笠原志富、病死のため部落葬執行(原文ママ)
昭和23年 目梨に引揚者11戸入植(6月)
 同年   電話開通落成祝賀会(9月)
昭和26年 泊内沿岸にシャチ群来 全校見学(2月)
昭和27年 ニシン大漁のため繁忙休業(4月22~29日)
昭和28年 ソ連船だ捕・スパイ関三次郎事件(8月)
昭和35年 東信秀校長急逝、学校葬執行(3月)
昭和37年 峰岡地区に電灯導入(12月)
昭和44年 開基80年・創立60周年記念行事挙行(9月)

閉校時の新聞記事を転載する。
名残り惜しむ部落民 消える峰岡部落 淋しさこらえて「蛍の光」学校閉鎖とあわせ解散式
「部落ぐるみで移転することになっている稚内市峰岡の部落解散と、小中学校の閉校式は、部落の開基80年、小学校創立60年の記念式典とあわせ、1日午前11時から同校で行った。出席した部落民や生徒は「蛍の光」で別れを惜しみ、サイダーやジュースでお互いの健康を祈りあっていた。
同部落は稚内市の最東端にある。明治20年頃から開拓のクワが入れられ、ホタテの「貝場」、ニシンで栄えた。また戦後の外地引揚者も数多く入り、一時は戸数60戸、人口は400人にもなったことがある。しかし、漁業資源の不足、花嫁不足、後継者難の社会情勢から、他地区への転出が相次ぎ、現在では一般住宅5戸、先生の住宅3戸、人口わずか31人に減少している。生徒の数もわずか9人で、そのうち1戸から6人が通学している状態。
部落民は数年前から漁港の建設、船揚場の設置などを市へ要望していたが、衰退する部落の姿から「巨費を投じる価値がない」と判断、市議会などとともに部落の移転が将来のため―と住民に諮った。先祖の代から住みついでいる部落民は、はじめ部落閉鎖という事態にかなり強い難色を示していたが、宮本岩太郎部落会長らが中心になって話合いを続けた結果、移転費さえ補償されるならとこの移転案に同意、この日の部落解散式となったもの。
 全国的にも例がないこの解散に、市でも異例といわれる移転補助金を13戸分700万円を計上、今議会で承認を得ることになっている。
 現在部落に残っている5戸も遅い人でも11月中には移転し、生徒も今月10日過ぎまでには他へ転校する。したがって、この日の解散式、閉校式後若干の間は部落も存在するがその後は完全に無人化状態になる。
この日の式典には、部落民や峰岡出身者など約40人、それに来賓などが出席。最後の別れを惜しんだ。浜森市長も「消滅するための解散ではなく、将来に向かって発展するための解散であってほしい」と部落民を激励していた。
部落の発展や学校のためにつくした宮本岩太郎氏ら多数に感謝状と記念品が贈られた後、残り少ない生徒たちが「ああ、美わしきわが故郷(さと)よ」と校歌を唄い、また参加者全員で「蛍の光」を唄って、つきぬ名残りを惜しんだ。」(「日刊宗谷」昭和44年9月2日)

学校の沿革は以下のとおりである。

小学校
明治42年 時前教育所として開校(5月)
大正 6年 時前尋常小学校と改称(6月)
昭和16年 時前国民学校と変更(4月)
 同年   峰岡国民学校と改称(9月)
昭和22年 峰岡小学校と改称(4月)
昭和44年 閉校

中学校
昭和24年 大岬中学校峰岡分校として開校(5月)
昭和27年 峰岡中学校と改称(4月)
昭和44年 閉校

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宗谷管内の廃校廃村を巡る旅、メインである稚内市峰岡。
ここから学校までは徒歩約20分と見積もって歩きはじめた。

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歩き始めてから少し経ち、地形図に書かれた「墓地マーク」のポイントに来た。
明治時代からある集落なので、学校と神社、墓地は集落に「なくてはならないもの」である。
その墓地は植林されていた。

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墓地を後にして先へ進む。

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学校跡へ近づいてきた。

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峰岡小中学校へ到達した。
へき地4級、日本最北の「学校跡がある廃村」である。

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周辺には水道関係の基礎や教員住宅の基礎、瓶などが転がっている。

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学校と神社・その先にあった桃尻集落へ続く橋の基礎。
尚、「桃尻」は「モムジリ」と読む。

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瓶が転がっている。
平坦地が所々に広がっているので、屋敷跡の決め手にもなる。

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学校の背後にあった神社跡へ進む。

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しかし。背丈以上のササがびっしりと生い茂っていた。
これでは前に進むこともできない。

諦めて移転前の学校跡地へ行くことにした。

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地形図を見比べると、移転前の学校は神社の隣接地に文マークがしるされている。
校舎・校庭があってもおかしくない広さである。

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学校の入り口らしき跡には松の木が生えていた。

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移転前の校舎跡より移転後の校舎跡を眺める。

これより先は再訪した時(令和元年10月・11月)のものである。

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戦後、引揚者が入植した目梨集落跡。
子どもたちは峰岡の学校へ通学していた。

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目梨集落風景。

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旧版地形図では左手の森に神社マークがある。

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神社跡地付近。

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「峰岡」の地名は今もある。

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学校跡地(水飲み場)。

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タコ工場跡の基礎。

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対岸の高台より峰岡集落を俯瞰する。

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3メートル近い笹をかき分けて進んだが、この時は遭難寸前だった。

令和2年3月、HEYANEKO氏らと再び、足を運ぶ。

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学校手前の旧道の風景。

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現在の学校跡と移転前の学校跡を比較する。

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時前川の河口は凍っていた。

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対岸の旗竿。

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神社跡地付近に残る電柱。

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神社跡地。
決め手は「サクラ」の樹が植わっていたことである。

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神社跡地周辺の風景。

P1140211 - コピー
対岸の位置関係。
冬の探索は基礎が埋もれている反面、旧道がしっかり姿を現すので位置関係がよく分かった。

参考文献
北海道新聞1953「関三次郎を起訴 最高検で司令 出入国管理令違反等で」『北海道新聞』昭和28年8月26日
北海道新聞上川・宗谷天塩版1953「現地特派記者が語るソ連船だ補事件の裏話」『北海道新聞』昭和28年8月16日
1969『あゆみ』峰岡開基80年 峰岡小学校開校60周年記念協賛会
日刊宗谷1969「名残り惜しむ部落民 消える峰岡部落 淋しさこらえて「蛍の光」学校閉鎖とあわせ解散式」『日刊宗谷』昭和44年9月2日
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No title

 移転前の学校と神社付近に行ったんですね。私が行った時は強風で笹がガサガサと大きな音を立て
熊がいても気が付かないと思われる音で、学校跡付近で引き返しました。車で行けるか分からず私も
歩きました。車で行けばよかったです。

Re: No title

K・Tさま

コメント有難うございました。あの日は友人と訪ねたので、単独でしたら移転前の学校跡には行ってなかったかもしれません。
学校までの道は悪いので、徒歩のほうが良いと思います。

「峰岡」に関係ないことまでホントすいません

40年位前に、観光ガイド本「ブルーガイド 北海道」の欄外コラムに「峰岡」が無住区になったことが
記載されて以来、ちょっち行ってみたいと思ってましたが、とうとういけませんでした。
それでも20数年前に自転車でR238を南下する途中に、「峰岡団体(峰岡集落かも)」という
立派な「青看板」があった(ように思えてだけかも)ので、入っていこうかと思ったのですが、
自転車が下りでいいスピードが出ていたのと、やっぱちょっち怖かったのでスルーしちゃいました。
貴ブログ拝見して思いました、「(一人で)いかなくてよかった!」
・・・「パンク」も「クマ」も怖いはじめっち

家さ帰って、すぐ稚内の「上増幌」「修徳」「咲内」調べてみたのんす(勉強さきらいだども)。
「『修徳』ってば、たぶん『上修徳』んことでっしょ」「いや、ホロカ川の『修徳』です」
「『上増幌』『中増幌』『下増幌』と『恵北』の位置関係と学校がわかんないのだ。
『恵北小学校』と『増幌小中学校』はおんなじなんか?、ばかだからわからんのだぁ!」
「『咲内』ってないけど、『若咲内』のことかな?」「『珊内』ってあるけどこれじゃねっか?」
「んでも資料じゃ、『宗谷村の道路は稚内よりいい』ってあるから、宗谷岬近くの『珊内』でないと思う」「音は似てるべ」
っとまあ、4匹でけんけんごうごうだったのっす(地名辞典、宙とんだのす)。
というわけで、貴ブログ本文は今日の今、最後まで通しで拝見している状態なのす。
・・・下調べしないと動けん4ばかなのすゆたかすんません忘れてくださいす

あたいはむずかしいことはよくわかんないけれども、いま『桃尻』ってねっとでしらべたけんども、
なんか『桃尻娘』くらいしか載っていなくって、「そりゃそうだw」ってばかにされたのだ。
くやしいから、いちお、あたいなりにがんばって出した答えが、
『モムジリ』の写真と「音」の感覚から、『モ・(m)モシリ』(ちっこい『島』でなく丘?・山?)」
かなって、勝手に思って「よくがんばった、いいこいいこ」と自分ほめてるのだ!
・・・でもきっとまとはずれなのだつるみんだって「島」じゃないもん

いまでも、市町村教委と各校の教務職員を中心に、年一回の「観劇」とかいう行事に何を見せるか、
どの団体を呼ぶとか、会議を持つという話を聞いたことがあります(国語・音楽の時数で処理)。
おそらく今では児童生徒のみの参加になっているのでしょうが、むかしは学校行事だけではなく、
地域行事でもあり、文化振興の上でも重要だったことがうかがえました。ありがとうございます。
・・・それだけ僻地の「外の世界」を見る機会は大切だったんですねみならいかのん



Re: 「峰岡」に関係ないことまでホントすいません

はじめっち&ゆたか&つるみん&みならいかのんさま

コメント有難うございました。観光ガイド本の掲載、そして「峰岡団体?」の看板は初耳です。
桃尻、名前を聞くとドキッとしますが現地への道のりはきびしいです。宗谷管内の地名も、峰岡を訪ねる際に出来るだけ頭に叩き込んで覚えました。
「走る公民館」は、クルマに視聴覚機材を入れてへき地の学校を走り回っていました。公民館の元祖です。
走る公民館の同乗記を読みますが当時の道路事情、へき地の日常が描かれています。

お尋ねします

父親の出生地が戦前の峰岡です。時々資料がないか検索してまして、こちらに来ました。
昭和50年代に親せきと時前川の河口まで行きましたが、当時でも壊れそうな橋でした。
掲載されていた写真は2017年の現況でしょうか。

父によると戦争の影響で一時峰岡(当時は時前と言っていたようですが)は強制疎開させられ、
時前を離れたと言っていたのですが、そういう記述のある資料には行き当たりません。
もしどこかで見かけられたらお教えいただけないでしょうか。

Re: お尋ねします

Kenさま

お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。
お訊ねの件ですが、写真は2017年9月に撮影したものです。
強制疎開の件は初耳です。一度、稚内市教育委員会にお訊ねした方が良いかと思います。

神社跡到達、おめでとうございます(^_^)
次回は神社跡に咲くサクラをめざす探索、期待しております。

HEYANEKOさま

先日はお疲れ様でした。
神社の花見はハードルが高くなります…。いつかまた行きたいと思います。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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