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猿払村猿骨開拓

猿払村猿骨開拓(平成29年9月16日探訪)

猿払村猿骨開拓は戦後開拓集落である。

昭和25年11月、猿骨団地に9戸、芦野団地に12戸入植者が現れた。
その後も昭和26年から34年にかけて延べ67戸が入植した。
開拓入植者の多くが山形県出身者で、泥炭地で根曲り竹が繁茂していた原野を開拓していった。
しかし、気候が厳しく度重なる冷害に見舞われたことや過剰入植対策の実施により、昭和34年の67戸のうち35戸が離農している。
また、浜鬼志別港から漁船が出るようになってから浜鬼志別へ転出していくものもいた。
学校の沿革は以下の通りである。

昭和32年 芦野小学校栄分校開校(4月)
昭和46年 閉校(3月)


閉校時の記事を掲載する

分校よサラバ 栄校で廃校式
「〔猿払〕芦野小学校栄分校の廃校式は30日午後1時から同校で盛大に行われた。
笠井村長をはじめ、議会議長、部落会長など多数の来賓が出席して行われ、功労者に感謝状が贈られた。
昭和32年3月31日に芦野小学校分校として創立され、同年4月1日に開校し今日までに至った。14年間の歴史にピリオドを打ち廃校の運びになった。
今までに81名の卒業生を送り出し多い年には10名の卒業生を送り出したという。」

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宗谷地方を巡る廃校廃村探訪 猿払村猿骨開拓を訪れた。

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橋の名は「猿骨開拓橋」

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川の名は「猿骨川」

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橋を渡ると牧草畑が広がっている。

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栄分校跡地。校舎の基礎や防風林も見当たらなかった。

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見渡す限りの牧草畑が広がっている。

KIMG2119.jpg
戦後開拓集落の名残は、橋の名前のみであった。

参考文献
猿払村史編纂発行委員会1976『猿払村史』猿払村役場
猿払村史編さん発行委員会2014『猿払村史第2巻』猿払村役場
日刊宗谷1971「分校よサラバ 栄校で廃校式」日刊宗谷昭和46年3月31日
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プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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