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豊富町日曹

豊富町日曹(平成29年9月16日探訪)

豊富町日曹は炭鉱集落である。

明治37年本願寺農場の管理人であった長門勇輔は日曹地区での採炭を計画し、農場の小作人をつかって明治42年から石炭を試掘した。
採掘した場所は大谷坑(後の三坑区域)で露天掘りであった。しかし輸送面の不備のため明治44年で操業を停止した。本格的な採炭は昭和時代に入ってからであった。

昭和11年日曹鉱業株式会社が5000万で鉱区を所有していた大谷光暢を買収し、7月9日会社重役、技手など10数名が現地調査し、炭層の有望性が確認され直ちに馬車道をつくり、物資の運搬を経て10月10日第1坑の採炭に着手した。
昭和13年豊富-日曹間に専用鉄道の敷設が始まり、昭和15年2月に専用鉄道が完成した。
この頃、冷害が全道を襲い南沢、北沢、目梨別、福永などの入植者は炭鉱労働に転業する者が増え児童も急増していった。このことから、学校設立の要望が高まり昭和13年9月に設立認可が下りた。学校の沿革は以下の通りである。

小学校
昭和13年 南沢尋常小学校附属本流特別教授場として開校(9月)
昭和14年 本流尋常小学校と改称(3月)
昭和15年 日曹尋常小学校と改称(12月)
昭和16年 日曹国民学校と改称(4月)
昭和22年 日曹小学校と改称(4月)
昭和45年 火災のため消失(3月)
        校舎新築(11月)
昭和48年 閉校(3月)

中学校
昭和22年 開校(5月)
昭和48年 閉校(3月)

炭鉱鉄道敷設時期(昭和13年)以降の炭鉱の動向は以下の通りである。
昭和13年    鉄道職員住宅、第一発電所建設、事務所落成
          一の沢、二の沢、熊の台集落の形成
昭和14年    日曹神社造営(6月10・11・12日祭典)
          バウム式水洗選炭機設置
昭和15年    第二発電所落成(この頃の戸数 410戸1980人)
昭和16年    日曹診療所竣工
昭和17年    新事務所(一の沢)完成
昭和18年    選炭場完成
昭和22年    日曹炭鉱株式会社設立
          新町1区・2区、富岡町、川向等に新たな炭鉱住宅の建設
昭和30年    日曹天塩鉱業所一時休山
昭和31年    選炭場火災により全焼
昭和35年以降 第3坑深部開発工事着手
         坑内運搬の機械化
         選炭機新設
         採炭掘進の機械化
昭和47年    閉山(7月) (閉山時の戸数251戸937人 うち鉱業所関係196戸767人)

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猿払村上猿払・石炭別を探訪後、豊富町日曹へやってきた。

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建物はすべて大自然に戻っている。

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日曹炭鉱跡地の記念碑。
残っている煙突は事務所の建物である。

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傍に、かなり傷んでいるが昭和28年頃の日曹の案内板が掲示されている。

煙突の傍に、往時の日曹の写真が掲示されていた。
量が多いため、3分割してここに掲載する。

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記念碑の向かいに学校があったが、既に痕跡は見当たらなかった。
手持ちの写真と見比べ、山の稜線で校舎跡地を特定した。

KIMG2173.jpg
学校跡地付近より日曹集落を望む。
道はいいが、ここに集落があったとは信じられないくらい自然に戻っていた。



参考文献

豊富町史編さん委員会1986『豊富町史』豊富町史編さん委員会
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非公開コメント

煙突ももう老朽化してるんですね

自分らが行ったときには、ささやぶで、煙突のところまで行きつけませんでした。
工場の煙突だと思ったのですが、事務所のものだったんですね。
当時はとても大きな構造物に見えたのですが…
・・・ありがとうございましたみならいかのん

写真を拝見して、郵便局の建物がとても立派ですね!と思いました。
日曹は併置校かそうでないかはわかりませんが、小学校の校舎が消失してもなお、
がんばって建て直したのですから、その2~3年後に閉校して集落がなくなるなど、
なんていうか、つらい、というか、なして?です。
・・・そのころにはもう閉鉱のはなしとかはあったのでしょうか?はじめっち

陸別町にも「日宗」って集落があったような気がするだども、
やっぱし、本願寺派と何か関係があるのだろかっす。
・・・日蓮宗?かも…っすゆたかすんません、くだらんことを…

Re: 煙突ももう老朽化してるんですね

みならいかのん&はじめっち&ゆたかさま

コメントありがとうございます。
あの煙突ですが、ネットでは火葬場云々…と書かれていますが事務所です。
校舎の火災後、すぐに再建しましたが炭鉱の閉山で学校も閉校、というのは勿体無いです。
宗教関係については、色々とありますのでここでのコメントは控えたいと思います。

大学生時代に訪問

 日曹炭鉱は、学生時代に地理学の実習地として訪問いたしました。昭和48年のこと。森林の中の道を行くと、いきなり炭住街が現れて驚きました。当時は鉄路も残っていましたし、映画館も廃墟として有りました。炭住街には、石炭残渣があり往時を偲ばせるものが有りました。正直なところ人の気配を感じながら記録を取った。夜になると豊富温泉に宿泊したのですが、川島旅館しか記憶にありません。
 縁は味なもので、平成25年よりこの豊富温泉の地でグループホームを運営するとは。現地には記念碑が建ってる位で、往時を偲ばせるものは残念ながらありませんね。炭鉱技術者の方が豊富町駅近くにいらっしゃって、日曹炭鉱の話を伺いました。石炭の品位は余り高くなかったこと。海水面以下を掘削すると湧水が増えたことや、重粘土層が厚く地盤は安定していて、落盤事故は少なかったとか。原油を含む地層も有ったそうです。蒸気機関車で石炭を豊富駅まで運搬中に、列車の火の粉による森林火災を起こしたことなど聞かせていただきました。

Re: 大学生時代に訪問

和ごころさま

コメント有難うございました。また、お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。
学生時代の日曹の話、興味深く拝見致しました。閉山直後なら、まだまだ建物が残っていたのですね。炭鉱技術者の話もいずれ貴重なものになります。
私の知り合いが今春、日曹へ行ってきました。遺構は探せばまだ残っていると聞きました。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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