京極町脇方
京極町脇方(平成30年2月10日探訪)
京極町脇方は明治期に福島団体が入植したが、後に鉱山集落へ発展を遂げた。
明治41年 福島団体(信夫郡吉井田村 佐藤久三郎団長)29戸
舟山団体(信夫郡野田村 舟山亀之助団長)12戸
明治44年 信夫団体(信夫郡吉井田村・土湯村 唯木七郎治総代人) 27戸
大正 3年 和歌山団体(北風種吉総代人)戸数不詳 が脇方地内に入植した。
しかし、凶作冷害や地力の減退により和歌山団体は大正12年全戸離農。福島団体は前記のほか鉱山開発により昭和14,5年頃には数戸のみの就農。舟山団体は脇方駅や官舎、鉱山事務所、社宅、小中学校用地として買収され団体全員四散した。
明治31年に藤村徳治によって褐鉄鉱鉱床が発見され、大正5年に三井鉱山㈱の所有となり本格的な試錐が行われた。大正7年に北海道製鉄に譲渡され、翌8年日本製鋼所と北海道製鉄の合併により日本製鋼所倶知安鉱業所として操業を開始。大正9年に鉱石輸送のため脇方線が開業した。
第一次世界大戦後の不況により大正10年から13年にかけて休山したが、翌14年より操業を再開。昭和6年の満洲事変の影響により第2次世界大戦まで軍需資源増産により倶知安鉱山の全盛期を迎えた。
昭和6年 輪西製鉄所(株)、昭和9年輪西鉱山(株)昭和14年日鉄鉱業(株)と所属が変わり、昭和19年の脇方地区は従業員の家族を合わせて4000人が暮らしていた。
終戦後、戦災を受けた室蘭製鉄所が操業を一時休止したため昭和21年の生産は激減、昭和23年の脇方市街大火により事務所・倉庫を焼失したが朝鮮戦争を機に需要も活発になっていった。
昭和30年代に入ると海外鉱石の輸入増加や倶知安鉱山の鉱量枯渇が重なり、昭和44年10月に閉山した。
学校は明治44年4月 奥ワッカタサップ特別教授場として開校した。
大正4年末に児童数が100名を超えたため大正5年 地元の村会議員より奥ワッカタサップ特別教授場・ワッカタサップ特別教授場(明治42年1月開校)を統合して第四尋常小学校建設の議を提出した。村は小学校建設を可決したが、付帯条件として
建築費の4割を関係集落が負担
学校の統合・学校位置は集落住民が選定 されることとなった。
しかし、建築費の4割負担や両教授場の位置問題で互いに譲らず、協議を重ねた結果大正7年、現在地(閉校時の位置)に決まった。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
明治42年 ワッカタサップ特別教授場(通称 中山梨分教場) 開校(1月)
明治44年 奥ワッカタサップ特別教授場開校(4月)
大正7年 東倶知安第四尋常小学校と改称(10月)
大正11年 火災により焼失(12月)
大正12年 校舎新築(11月)
昭和16年 脇方国民学校と改称(4月)
昭和22年 脇方小学校と改称(4月)
昭和45年 閉校(10月)
中学校
昭和22年 開校(6月)
昭和24年 脇方中学校と独立(4月)
昭和38年 小中併置校となる(4月)
昭和45年 閉校(3月)
閉校直前の「お別れ会」の記事を掲載する。
楽しい思い出胸に〝お別れ会〟ヤマとともに消える京極の脇方小中校
〝あなたも元気で〟 卒業生父母 鼓笛演奏に涙ぐむ
【京極】鉄のヤマとともに歩んできた脇方小中校がヤマとともに消えることになった。10月の閉校を前に20日、同校で卒業生、父母らが集まって〝お別れ会〟が開かれ、思い出多い校舎、マチ並みをながめながら互いにしあわせを祈り、いつまでもなごりを惜しんでいた。
町市街地から約7キロ、谷間の脇方が開かれたのは明治31年。当時、東倶知安村の一農民によってかっ(褐)鉄鉱の鉱床が発見されてから鉱量1千万トンといわれる鉱山とあって大正5年、三井鉱山の手で本格的な採掘が始められ、その後昭和14年に日鉄鉱業の所属となった。16年には胆振縦貫鉄道が完成、第二次大戦の需要増加から戦時中は年に60万トン近い生産高を記録、同地区の人口も約4千人にふくれあがった。
戦後は30年代に入って大量の海外鉱石が輸入され、加えて鉱量の枯渇という事態になったことから昨年10月、倶知安鉱山はついに閉山。日鉄鉱業の北海道本部が残っていただけになったが、この10月には本部も脇方から引き揚げることに決まった。
脇方の鉱山の盛衰とともに歩んできた脇方小中学校は明治44年に設けられたワッカタサップ特別教授所が前身。その後東倶知安村第四尋常小学校として独立。戦前戦後を通じて鉱山従業員の子供が学んできたが、昭和19年の脇方国民学校時代には552人の児童を数えたこともある。しかし日鉄鉱業の縮小に伴って児童数は減少。現在は51人を残すだけ。10月には全員が家族とともに転校、学校は自然閉校となる。このため同窓生らが主体になって〝なつかしい母校にもう一度集まってお別れを〟と、この会を催した。
会には札幌、小樽、管内各地に住んでいる卒業生、父母ら150人が出席。阿部校長、来賓らが『いつの日か脇方が再開発されてにぎわいを取り戻すことを祈っています。それまで健康に気をつけて-』とあいさつ。このあと児童生徒代表らが『授業やお祭りなど楽しかったことばかり。新しい土地に友だちはいませんが、しっかり勉強します』と作文を朗読、さらに子供たちが〝思い出〟〝蛍の光〟など数曲を鼓笛演奏するとそっと目がしらを押える人もみられた。」(北海道新聞後志版昭和45年9月22日)

平成30年2月、HEYANEKO氏らと脇方を訪ねた。
正面の建物は産廃処分場であるが、そこにかつての脇方駅があった。

橋の名前は「鉄見橋」
ここから鉄道が見えたことに由来する。

川の名前は「ワッカタサップ川」である。
ちょっと川を覗いてみる。

川の色は鉄を含んでいるせいか、少し茶色っぽい色をしていた。

鉄見橋から右へ行く道は通行止めであった。
この先にはかつて、神社があった。

脇方駅跡。
駅のすぐ近くに学校があった。

ふと見ると、何かこんもりしたモノが見える。
学校跡の碑である。

学校跡の碑。
碑の高さは2メートルくらいあるが、雪が降り積もり、これでは分からない。

ゴム手袋をはめて、雪から掘り起こした。
脇方小中学校の碑を復活させた。

もう少し先へ進むと、煙突が見えた。
煙突までツボ足で進む。

学校跡の煙突。
積雪で行ける範囲は限定されたので、次は雪のない時期に再訪してみたい。
参考文献
北海道新聞1970「楽しい思い出胸に〝お別れ会〟ヤマとともに消える京極の脇方小中校 〝あなたも元気で〟 卒業生父母 鼓笛演奏に涙ぐむ」『北海道新聞』昭和45年9月22日
京極町史編纂委員会1977『京極町史』京極町
京極町教育委員会2016『昭和の時代を振り返る ふるさと京極120年昔日の脇方-ワッカタサップと倶知安鉱山50年-解説編』
京極町脇方は明治期に福島団体が入植したが、後に鉱山集落へ発展を遂げた。
明治41年 福島団体(信夫郡吉井田村 佐藤久三郎団長)29戸
舟山団体(信夫郡野田村 舟山亀之助団長)12戸
明治44年 信夫団体(信夫郡吉井田村・土湯村 唯木七郎治総代人) 27戸
大正 3年 和歌山団体(北風種吉総代人)戸数不詳 が脇方地内に入植した。
しかし、凶作冷害や地力の減退により和歌山団体は大正12年全戸離農。福島団体は前記のほか鉱山開発により昭和14,5年頃には数戸のみの就農。舟山団体は脇方駅や官舎、鉱山事務所、社宅、小中学校用地として買収され団体全員四散した。
明治31年に藤村徳治によって褐鉄鉱鉱床が発見され、大正5年に三井鉱山㈱の所有となり本格的な試錐が行われた。大正7年に北海道製鉄に譲渡され、翌8年日本製鋼所と北海道製鉄の合併により日本製鋼所倶知安鉱業所として操業を開始。大正9年に鉱石輸送のため脇方線が開業した。
第一次世界大戦後の不況により大正10年から13年にかけて休山したが、翌14年より操業を再開。昭和6年の満洲事変の影響により第2次世界大戦まで軍需資源増産により倶知安鉱山の全盛期を迎えた。
昭和6年 輪西製鉄所(株)、昭和9年輪西鉱山(株)昭和14年日鉄鉱業(株)と所属が変わり、昭和19年の脇方地区は従業員の家族を合わせて4000人が暮らしていた。
終戦後、戦災を受けた室蘭製鉄所が操業を一時休止したため昭和21年の生産は激減、昭和23年の脇方市街大火により事務所・倉庫を焼失したが朝鮮戦争を機に需要も活発になっていった。
昭和30年代に入ると海外鉱石の輸入増加や倶知安鉱山の鉱量枯渇が重なり、昭和44年10月に閉山した。
学校は明治44年4月 奥ワッカタサップ特別教授場として開校した。
大正4年末に児童数が100名を超えたため大正5年 地元の村会議員より奥ワッカタサップ特別教授場・ワッカタサップ特別教授場(明治42年1月開校)を統合して第四尋常小学校建設の議を提出した。村は小学校建設を可決したが、付帯条件として
建築費の4割を関係集落が負担
学校の統合・学校位置は集落住民が選定 されることとなった。
しかし、建築費の4割負担や両教授場の位置問題で互いに譲らず、協議を重ねた結果大正7年、現在地(閉校時の位置)に決まった。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
明治42年 ワッカタサップ特別教授場(通称 中山梨分教場) 開校(1月)
明治44年 奥ワッカタサップ特別教授場開校(4月)
大正7年 東倶知安第四尋常小学校と改称(10月)
大正11年 火災により焼失(12月)
大正12年 校舎新築(11月)
昭和16年 脇方国民学校と改称(4月)
昭和22年 脇方小学校と改称(4月)
昭和45年 閉校(10月)
中学校
昭和22年 開校(6月)
昭和24年 脇方中学校と独立(4月)
昭和38年 小中併置校となる(4月)
昭和45年 閉校(3月)
閉校直前の「お別れ会」の記事を掲載する。
楽しい思い出胸に〝お別れ会〟ヤマとともに消える京極の脇方小中校
〝あなたも元気で〟 卒業生父母 鼓笛演奏に涙ぐむ
【京極】鉄のヤマとともに歩んできた脇方小中校がヤマとともに消えることになった。10月の閉校を前に20日、同校で卒業生、父母らが集まって〝お別れ会〟が開かれ、思い出多い校舎、マチ並みをながめながら互いにしあわせを祈り、いつまでもなごりを惜しんでいた。
町市街地から約7キロ、谷間の脇方が開かれたのは明治31年。当時、東倶知安村の一農民によってかっ(褐)鉄鉱の鉱床が発見されてから鉱量1千万トンといわれる鉱山とあって大正5年、三井鉱山の手で本格的な採掘が始められ、その後昭和14年に日鉄鉱業の所属となった。16年には胆振縦貫鉄道が完成、第二次大戦の需要増加から戦時中は年に60万トン近い生産高を記録、同地区の人口も約4千人にふくれあがった。
戦後は30年代に入って大量の海外鉱石が輸入され、加えて鉱量の枯渇という事態になったことから昨年10月、倶知安鉱山はついに閉山。日鉄鉱業の北海道本部が残っていただけになったが、この10月には本部も脇方から引き揚げることに決まった。
脇方の鉱山の盛衰とともに歩んできた脇方小中学校は明治44年に設けられたワッカタサップ特別教授所が前身。その後東倶知安村第四尋常小学校として独立。戦前戦後を通じて鉱山従業員の子供が学んできたが、昭和19年の脇方国民学校時代には552人の児童を数えたこともある。しかし日鉄鉱業の縮小に伴って児童数は減少。現在は51人を残すだけ。10月には全員が家族とともに転校、学校は自然閉校となる。このため同窓生らが主体になって〝なつかしい母校にもう一度集まってお別れを〟と、この会を催した。
会には札幌、小樽、管内各地に住んでいる卒業生、父母ら150人が出席。阿部校長、来賓らが『いつの日か脇方が再開発されてにぎわいを取り戻すことを祈っています。それまで健康に気をつけて-』とあいさつ。このあと児童生徒代表らが『授業やお祭りなど楽しかったことばかり。新しい土地に友だちはいませんが、しっかり勉強します』と作文を朗読、さらに子供たちが〝思い出〟〝蛍の光〟など数曲を鼓笛演奏するとそっと目がしらを押える人もみられた。」(北海道新聞後志版昭和45年9月22日)

平成30年2月、HEYANEKO氏らと脇方を訪ねた。
正面の建物は産廃処分場であるが、そこにかつての脇方駅があった。

橋の名前は「鉄見橋」
ここから鉄道が見えたことに由来する。

川の名前は「ワッカタサップ川」である。
ちょっと川を覗いてみる。

川の色は鉄を含んでいるせいか、少し茶色っぽい色をしていた。

鉄見橋から右へ行く道は通行止めであった。
この先にはかつて、神社があった。

脇方駅跡。
駅のすぐ近くに学校があった。

ふと見ると、何かこんもりしたモノが見える。
学校跡の碑である。

学校跡の碑。
碑の高さは2メートルくらいあるが、雪が降り積もり、これでは分からない。

ゴム手袋をはめて、雪から掘り起こした。
脇方小中学校の碑を復活させた。

もう少し先へ進むと、煙突が見えた。
煙突までツボ足で進む。

学校跡の煙突。
積雪で行ける範囲は限定されたので、次は雪のない時期に再訪してみたい。
参考文献
北海道新聞1970「楽しい思い出胸に〝お別れ会〟ヤマとともに消える京極の脇方小中校 〝あなたも元気で〟 卒業生父母 鼓笛演奏に涙ぐむ」『北海道新聞』昭和45年9月22日
京極町史編纂委員会1977『京極町史』京極町
京極町教育委員会2016『昭和の時代を振り返る ふるさと京極120年昔日の脇方-ワッカタサップと倶知安鉱山50年-解説編』
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