沼田町昭和
沼田町昭和(平成30年5月19日他探訪)
沼田町昭和は炭鉱集落である。
明治31年奈良義路が試掘権を設定、大正7年明治鉱業㈱の所有となり、大正8年から9年にかけて鉱区の調査が行われたが、本格的な調査は大正15年からである。
昭和4年に九州戸畑本社から開坑建設隊が到着し、御料林の原木払い下げを受け現地に木工場をはじめ、火力発電所、各工場、火薬庫等が次々と施設が出来上がっていった。
昭和5年10月、留萌鉄道全通と同じくして出炭、11月より送炭を開始した。
昭和40年、合理化法に基づく再建会社として指定、経営合理化に努めるも昭和44年4月末をもって閉山。閉山式は5月17日昭和小学校にて行われた。
昭和地区にあった町名、建物を列挙すると、次の通りである。
町名
青葉町、新光町、幸町、川添町、山乃手、外町、旭町、東町、緑町、栄町、右高台、中高台、左高台、新高台、奥高台、右本町、左本町、川上町、福岡町、奥町、上新町、下新町
建物関係
火葬場、配給所、第一倶楽部、信和会館、保育園、昭和小中学校、神社、昭和駅、寺院(曹洞宗竜泉寺)、浄水場、貯水ダム、木工場、隧道内部マーケット、選炭場、坑口神社、病院、総務課事務所、労働組合事務所、健保会館、郵便局、役場出張所、中央浴場、処理場、奥町浴場、プール
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
昭和5年 奥御料尋常小学校分教場として開校(4月)
同年 炭鉱開発に伴い急激な児童増加により校舎新築移転(9月)
昭和6年 昭和尋常小学校と改称
昭和8年 高等科設置
昭和16年 昭和国民学校と改称(4月)
昭和22年 昭和小学校と改称(4月)
昭和44年 閉校(7月)
中学校
昭和22年 開校(5月)
昭和24年 校舎移転独立(5月)
昭和44年 閉校(7月)
閉校時の報道を掲載する。
終業式が最後の別れ 廃校の昭和小、中両校 沼田に閉山の冷たい風 夏休み帳さびし どんどん進む炭住解体
「【沼田】22日、閉山のヤマにある昭和小、中両校で閉校式がさびしく行なわれた。
昭和5年4月開校の昭和小校、同22年5月の昭和中校はともに明鉱昭和鉱従業員の子供たちが通学してきた学校だが、同鉱の閉山、従業員の再就職、他市町村への移住で昭和小は4月当時、298人いた児童たちがいま13人に、同中は150人がたった7人に減ってしまった。昭和地区は7月末で電気、水道がストップするので残りの従業員も全員がヤマを降り、それにつれて同校も廃校となった。
同小校の終業式は同校屋体で行われたが、広い運動場に1、2年生の4人を囲むように高学年の9人が並び富樫同校長が『みんなは最後までこの学校に残って勉強したが、きょうの終業式で学校は閉校になります。よその学校へ行っても昭和校で習ったことを忘れずによく勉強し、お父さんやお母さんを安心させ、将来はりっぱな社会人になるよう心がけてほしい』とお別れのあいさつを述べ、また児玉同校PTA会長は『昭和で生まれ育ったみなさんは昭和でつちかわれた精神を忘れずにどこへ転校しても元気で勉強し強い人間になってほしい』と語った。
このあと、各学年ごとに夏休み帳を渡され、休み中の注意があってお別れの茶話会を開き、PTAから贈られたマンジュウを食べながら楽しかった思い出話を語っていた。
一方、昭和中では男子4人、女子3人が最後の校舎内外の清掃を行ない、渡辺同校長ほか4人の教諭たちと終業式にひき続いて閉校式を行なった。
こうしてさびしく両校の閉校式が行われている間も、昭和鉱の木造炭住街では解体作業が休む間もなく進められ、古材を積んだトラックが幌新太刀別川に沿いながらヤマを下りて行った。」(北海道新聞北空知版 昭和44年7月24日)

平成30年5月 HEYANEKO氏らと訪ねた。
筆者は平成15年頃より何度も訪ねてきたが、今回は約10年ぶりの再訪である。

地図を見ながら進むと、学校跡へ到着した。
小学校、中学校が置かれていたがあまりの大きさに驚いた。

この時期の探訪は基礎が見えるので探訪に適している。

水飲み場らしきものも残っていた。

学校の背後には神社があった。
瞬時に「これくらいなら登れる」と判断し、斜面をよじ登る。

神社の基礎が残っていた。

写真では分からないが、社殿の基礎が残っていた。

神社より学校跡を俯瞰する。
下一面、学校の基礎である。

川の対面には昭和駅があった。

駅跡は湿地帯と化していたが、手前に機関庫の基礎があった。

昭和炭鉱選炭場である。
この近くに「隧道マーケット」がある。

雪解け水による増水のなか、何とか行けそうなところがあったので渡渉した。

カメラのフラッシュをたかないと見えないくらい真っ暗だが、閉山反対の張り紙が残っていた。

お菓子屋さんだったのか、お菓子の一斗缶が残っている。

「守ろう俺達 手でこの炭鉱(ヤマ)を」

「団結……で斗い抜こう」

「悪ラツな会社の閉山…」

「閉山断呼ハネ返そう」

隧道マーケット内部より。
筆者が平成16年秋に訪ねた時と比べ、劣化が著しく進んでいた。

隧道マーケット探訪後、右本町・左本町に残る炭鉱住宅へ行った。

人々がいなくなり、廃墟と化した住宅。

奥町に残る炭住とプール。
人々が暮らした名残は、よく探せばまだ残っているかもしれない。

ホロピリ湖展望台にある、昭和炭鉱の地図。
次はこの地図を参考にしながら再訪したい。
参考文献
北海道新聞1969「終業式が最後の別れ 廃校の昭和小、中両校 沼田に閉山の冷たい風 夏休み帳さびし どんどん進む炭住解体」『北海道新聞北空知版』昭和44年7月24日
沼田町1982『新編沼田町史』沼田町
沼田町昭和は炭鉱集落である。
明治31年奈良義路が試掘権を設定、大正7年明治鉱業㈱の所有となり、大正8年から9年にかけて鉱区の調査が行われたが、本格的な調査は大正15年からである。
昭和4年に九州戸畑本社から開坑建設隊が到着し、御料林の原木払い下げを受け現地に木工場をはじめ、火力発電所、各工場、火薬庫等が次々と施設が出来上がっていった。
昭和5年10月、留萌鉄道全通と同じくして出炭、11月より送炭を開始した。
昭和40年、合理化法に基づく再建会社として指定、経営合理化に努めるも昭和44年4月末をもって閉山。閉山式は5月17日昭和小学校にて行われた。
昭和地区にあった町名、建物を列挙すると、次の通りである。
町名
青葉町、新光町、幸町、川添町、山乃手、外町、旭町、東町、緑町、栄町、右高台、中高台、左高台、新高台、奥高台、右本町、左本町、川上町、福岡町、奥町、上新町、下新町
建物関係
火葬場、配給所、第一倶楽部、信和会館、保育園、昭和小中学校、神社、昭和駅、寺院(曹洞宗竜泉寺)、浄水場、貯水ダム、木工場、隧道内部マーケット、選炭場、坑口神社、病院、総務課事務所、労働組合事務所、健保会館、郵便局、役場出張所、中央浴場、処理場、奥町浴場、プール
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
昭和5年 奥御料尋常小学校分教場として開校(4月)
同年 炭鉱開発に伴い急激な児童増加により校舎新築移転(9月)
昭和6年 昭和尋常小学校と改称
昭和8年 高等科設置
昭和16年 昭和国民学校と改称(4月)
昭和22年 昭和小学校と改称(4月)
昭和44年 閉校(7月)
中学校
昭和22年 開校(5月)
昭和24年 校舎移転独立(5月)
昭和44年 閉校(7月)
閉校時の報道を掲載する。
終業式が最後の別れ 廃校の昭和小、中両校 沼田に閉山の冷たい風 夏休み帳さびし どんどん進む炭住解体
「【沼田】22日、閉山のヤマにある昭和小、中両校で閉校式がさびしく行なわれた。
昭和5年4月開校の昭和小校、同22年5月の昭和中校はともに明鉱昭和鉱従業員の子供たちが通学してきた学校だが、同鉱の閉山、従業員の再就職、他市町村への移住で昭和小は4月当時、298人いた児童たちがいま13人に、同中は150人がたった7人に減ってしまった。昭和地区は7月末で電気、水道がストップするので残りの従業員も全員がヤマを降り、それにつれて同校も廃校となった。
同小校の終業式は同校屋体で行われたが、広い運動場に1、2年生の4人を囲むように高学年の9人が並び富樫同校長が『みんなは最後までこの学校に残って勉強したが、きょうの終業式で学校は閉校になります。よその学校へ行っても昭和校で習ったことを忘れずによく勉強し、お父さんやお母さんを安心させ、将来はりっぱな社会人になるよう心がけてほしい』とお別れのあいさつを述べ、また児玉同校PTA会長は『昭和で生まれ育ったみなさんは昭和でつちかわれた精神を忘れずにどこへ転校しても元気で勉強し強い人間になってほしい』と語った。
このあと、各学年ごとに夏休み帳を渡され、休み中の注意があってお別れの茶話会を開き、PTAから贈られたマンジュウを食べながら楽しかった思い出話を語っていた。
一方、昭和中では男子4人、女子3人が最後の校舎内外の清掃を行ない、渡辺同校長ほか4人の教諭たちと終業式にひき続いて閉校式を行なった。
こうしてさびしく両校の閉校式が行われている間も、昭和鉱の木造炭住街では解体作業が休む間もなく進められ、古材を積んだトラックが幌新太刀別川に沿いながらヤマを下りて行った。」(北海道新聞北空知版 昭和44年7月24日)

平成30年5月 HEYANEKO氏らと訪ねた。
筆者は平成15年頃より何度も訪ねてきたが、今回は約10年ぶりの再訪である。

地図を見ながら進むと、学校跡へ到着した。
小学校、中学校が置かれていたがあまりの大きさに驚いた。

この時期の探訪は基礎が見えるので探訪に適している。

水飲み場らしきものも残っていた。

学校の背後には神社があった。
瞬時に「これくらいなら登れる」と判断し、斜面をよじ登る。

神社の基礎が残っていた。

写真では分からないが、社殿の基礎が残っていた。

神社より学校跡を俯瞰する。
下一面、学校の基礎である。

川の対面には昭和駅があった。

駅跡は湿地帯と化していたが、手前に機関庫の基礎があった。

昭和炭鉱選炭場である。
この近くに「隧道マーケット」がある。

雪解け水による増水のなか、何とか行けそうなところがあったので渡渉した。

カメラのフラッシュをたかないと見えないくらい真っ暗だが、閉山反対の張り紙が残っていた。

お菓子屋さんだったのか、お菓子の一斗缶が残っている。

「守ろう俺達 手でこの炭鉱(ヤマ)を」

「団結……で斗い抜こう」

「悪ラツな会社の閉山…」

「閉山断呼ハネ返そう」

隧道マーケット内部より。
筆者が平成16年秋に訪ねた時と比べ、劣化が著しく進んでいた。

隧道マーケット探訪後、右本町・左本町に残る炭鉱住宅へ行った。

人々がいなくなり、廃墟と化した住宅。

奥町に残る炭住とプール。
人々が暮らした名残は、よく探せばまだ残っているかもしれない。

ホロピリ湖展望台にある、昭和炭鉱の地図。
次はこの地図を参考にしながら再訪したい。
参考文献
北海道新聞1969「終業式が最後の別れ 廃校の昭和小、中両校 沼田に閉山の冷たい風 夏休み帳さびし どんどん進む炭住解体」『北海道新聞北空知版』昭和44年7月24日
沼田町1982『新編沼田町史』沼田町
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初めまして。私の母が昭和炭鉱出身で、私も何度か行ったことがあります。母が17才の時に閉山になって引っ越しました。右本町の炭住の二階に住んでいたそうです。私も5月29日に昭和炭鉱探索に行きました。太刀別跡も目指しましたが道がよく分からなかったのと熊が怖いので途中で引き返しました。
昭和炭鉱へも途中で道が決壊しているのでいけなくなる日も近いかもしれませんね。
来年も行けたら行きたいと思っています
。
では、更新楽しみにしています。
昭和炭鉱へも途中で道が決壊しているのでいけなくなる日も近いかもしれませんね。
来年も行けたら行きたいと思っています
。
では、更新楽しみにしています。
零戦さま
お返事有難うございました。お母さまが昭和に住まわれていたとの由。昭和はあの鉄筋炭住が印象深いです。
太刀別砿は炭鉱病院手前の分岐をそのまま直進すると跡地へ行けますが、露天掘りで地形がだいぶ変わりました。太刀別の炭鉱住宅は浅野炭鉱選炭場跡を過ぎ、太刀別のホッパーの位置から川を挟んだ対岸と思います。
これからもどうぞよろしくお願い致します。
お返事有難うございました。お母さまが昭和に住まわれていたとの由。昭和はあの鉄筋炭住が印象深いです。
太刀別砿は炭鉱病院手前の分岐をそのまま直進すると跡地へ行けますが、露天掘りで地形がだいぶ変わりました。太刀別の炭鉱住宅は浅野炭鉱選炭場跡を過ぎ、太刀別のホッパーの位置から川を挟んだ対岸と思います。
これからもどうぞよろしくお願い致します。
お返事ありがとうございます。
貯水ダム?が見える辺りまでは行ったのですが、すぐに引き返してしまいました。また行けたらなぁとは思っているのですが。やはり一人は少々恐いですね。ネットを見ていてもなかなか情報がないので太刀別鉱までいく人はあまりいないみたいですね。
貯水ダム?が見える辺りまでは行ったのですが、すぐに引き返してしまいました。また行けたらなぁとは思っているのですが。やはり一人は少々恐いですね。ネットを見ていてもなかなか情報がないので太刀別鉱までいく人はあまりいないみたいですね。
零戦さま
コメント有難うございました。あの辺りはクマ出没地帯なので、独りでは行かないほうがいいと思います。
手前の浅野炭炭鉱、奥の昭和炭鉱で満足する方が多数なので太刀別鉱は私もあまり聞きませんが、文献には
操業時の写真が幾らか掲載されています。
コメント有難うございました。あの辺りはクマ出没地帯なので、独りでは行かないほうがいいと思います。
手前の浅野炭炭鉱、奥の昭和炭鉱で満足する方が多数なので太刀別鉱は私もあまり聞きませんが、文献には
操業時の写真が幾らか掲載されています。