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七飯町精進川 A先生&0氏の証言

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往時の精進川鉱山(日本硫鉄株式会社精進川鉱業所)
奥の建物は鉱山精錬所、手前の建物は購買

『鉱山の精錬・硫黄の用途について』
鉱石を掘ってトロッコで精錬所に運んでいたが、この時は硫黄以外にも色々なものが含まれている。
熱を加えて大きな窯に鉱石を入れ燃やす。そうすると硫黄と硫黄以外の燃えカスの煙に分かれる。硫黄だけが溶かされ、パイプを通してドラム缶に流れ込み、空気に触れることで再び固形化していった。この作業は2交代制であった。
採掘された硫黄は薬品や火薬で使われていたが、戦後発破、花火、薬に使われるようになった。
しかし、儲けも少なくなり閉山に至った。

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精進川鉱山跡地。坑口はこの先にある

『昭和28年の鉱毒問題について』
昭和28年 麓の開進社(注1)で鉱毒問題が起きた。「第2の足尾鉱毒事件」と呼ばれ、当時の町会議員S氏が中心となり会社側と話し合いを進めた結果、会社側が全面的に負担して溜池をつくり鉱毒が流れ込まないようにした。

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精進川

『精進川集落について』
風呂は長屋の人、鉱山労働者も無料で入浴できた。近くに床屋、購買、風呂の向かい側に50数戸の家が建ち並んでいた。購買は通帳で買い、給料から天引きされていく。
鉱山労働者の寮、職員寮、独身寮、鉱山労働者と職員の食堂があった。
私(教員)は職員の食堂で食事していたが、40~50人は入れる広さであり、賄婦は1人であった。

『精進川の暮らしについて』
鉱山労働者の長屋は1間、台所は別、石炭も部屋の中に入れ、トイレは外。
労働者のなかで少し偉いところは部屋と部屋の間にトイレがあった。
池田園駅近くに職員住宅があり、職員は自転車で通勤していた。また、索道が延びており、硫黄は索道で運ばれて池田園で卸していた。
冬は雪が多く、何処の家でも玄関にムシロを下げていた。防寒対策として、角まきで顔を覆っていた。
今のように笹や木々が生い茂らず、草原だった。家から駒ヶ岳が見えていた。
精進川は山菜も豊富で、グミ、野イチゴ、タケノコ、ウド、ヤマブドウが採れた。

『精進川で起きた事故』
ある年の冬、川に氷が貼っていたので子供が渡ろうとしたら氷が割れ、川に落ちてしまい亡くなった。
以来、冬の川渡りは無くなった。
また、発破かなにかで足を切断した人がいた。診療所は常勤医がいないので麓(七飯か函館)の病院へ運ばれていった。

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鳥居とその手前の道
向かって右側が鉱員住宅や浴場、左側に職員住宅があり、S字カーブであった

『精進川小中学校について』
学校は鉱山が建てた。当時、ほかの学校では真似できないくらい教材が豊富にあった。校舎は閉校してから1~2年のうちに解体された。
校舎は廊下を挟んで小学校、中学校。グランドは階段を降りて行くが広かった。
運動会は子供より大人の数が多かった。

(注1)現在の東大沼である。

写真 平成30年9月23日・11月3日撮影

聞き取り内容

『鉱山の精錬・硫黄の用途について』『昭和28年の鉱毒問題について』『精進川集落について』 A先生 
平成30年11月3日 七飯町内にて
『精進川の暮らしについて』『精進川で起きた事故』O氏 平成31年4月7日 函館市内にて

『精進川小中学校について』A先生&O氏より

往時の精進川鉱業所の写真 北海タイムス1958「師走の空の下に⑥ 暗い年越す精進川鉱山 再建夢みて機械整備 孤立の山奥に89世帯」『北海タイムス函館道南版』昭和33年12月24日
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プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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