京極町錦
京極町錦(平成30年2月10日・6月24日探訪)
京極町錦は農村集落であり、高度過疎集落である。
開拓は明治40年に富山県出身庄川農場が開拓したのが始まりである。富山県庄川の改修工事により川流域の耕地を失った者のために375町歩の未開地貸付の許可を受け小作人75戸を募集し、明治40年5月より入植を開始したが事情により同年9月小作地を開放して各個人に貸付許可されるに至った。
また、明治45年福島県会津団体(秋山辰四郎総代人35戸)も錦地区の開拓に従事していった。
学校は倶知安第六尋常小学校(現京極町公民館)に通学していたが、通学は山越え、沢越えの遠路であり冬季は通学困難であったことから地域住民は倶知安村役場(注1)に陳情を重ねた。その結果、明治39年10月に倶知安第六尋常小学校カシプニ特別教授所として開校した。
字名の由来はアイヌ語「カシプニ」の和訳である「ニシキ科マユミの木」であり、昭和16年の字名改正により錦となった。それ以前は「9区」「12区」「13区」と呼ばれ、ササゲ・除虫菊・バレイショを栽培していた。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
明治39年 倶知安第六尋常小学校付属カシプニ特別教授所として開校(10月)
明治43年 東倶知安第一尋常小学校付属カシプニ特別教授所と改称(4月)
大正 2年 東倶知安第三尋常小学校と独立(10月)
昭和11年 高等科分教室併置(9月)
昭和13年 東倶知安第三尋常高等小学校と改称、校舎移転(12月)
昭和16年 東倶知安第三国民学校と改称(4月)
字名改称により錦国民学校と改称(4月)
昭和22年 錦小学校と改称(4月)
昭和56年 閉校(3月)
中学校
昭和22年 錦中学校開校(4月)
昭和45年 閉校(3月)
(注1)当時、京極町は倶知安村に属し東倶知安と称していた。
閉校時の記事を掲載する
75年の歴史に〝幕〟=京極の錦小で閉校式= 最後の児童小上兄弟が別れの言葉
「【京極】戦前まで地域の中心校であった錦小学校の閉校式が29日、中山後志教育局長をはじめ阿部町長、地元有志、札幌、室蘭など道内各地の同窓生など合わせて170人が参加して行われた。
式では阿部町長が「児童のよりよい教育を進めるため閉校する」と告辞を述べ、歴代校長、現旧教職員、歴代PTA会長に感謝状が渡された。
続いて最後の児童となった小上淳一君(6年)幸樹君(3年)の兄弟が壇上に上がり、「錦小学校よ、さようなら」と別れのことばを述べた。
江川校長は「毎年毎年春はやってくるし、草木が芽をふき小鳥がさえずるけれども、昭和56年の錦の春は学校のない春で、75年前に戻った春になる。先生がたも、小上兄弟も一生忘れることの出来ない春だ。新しい春に向かって錦魂を燃やそう」と名残りを惜しみ、最後は全員で「ふるさと」を斉唱した。
同校は明治39年(1906年)10月11日、当時倶知安村の第六尋常小学校(現京極小学校)付属カシュプニ特別教授所として創立、大正3年(1914年)には東倶知安村第三尋常小学校として独立、東カシュプニなど2つの分教場を持つ中心校となり、大正から昭和19年までは150人もの児童、それに高等科生徒を合わせると200人以上の学童でにぎわっていた。
これまで小学校、高等科、中学生、それに大正時代の補習科生など合わせると延べ2000人の卒業生を送ってきたが、昨年春は児童4人となり、さらに8月からは2人が転出、小上兄弟の2人に減ってしまったことから、京極小に統合されることになった。」(『北海道新聞後志版』昭和56年3月31日)

平成30年2月、HEYANEKO氏らと京極町脇方探訪後に訪ねた。

公共の建物である「寿の家」は使われておらず、うず高く雪が積もっている。

昭和15年2月開局・昭和51年6月閉局の錦郵便局。
閉局後、一般の方が局舎を使っている。

この上に校舎があった。スノーシューを履いて進む。
(画像提供 HEYANEKOさま)

校舎は既に解体されており、だだっ広い風景が広がっていた。

何かの小屋を見つけたが、この時は分からなかった。

点在する家屋。
HEYANEKO氏が何かを見つけ、声が聞こえた。

見ると、馬頭観世音の碑である。

学校より手前の風景。
正面に見える建物は集乳所の跡である。

少し月日が流れ、6月に再訪を果たした。
集乳所の建物は存在感がある。

雪に埋もれていた馬頭観世音の碑は大きかった。
別な言い方をすれば、馬頭観世音の碑が埋まるくらい雪深い集落である。

寿の家は健在である。
建物左に何か見えた。

地神さまとお地蔵さまである。
お地蔵さまの建立年は分からなかったが、地神さまは大正11年9月建立された。
最後に、地神さまに彫られた名前をここに「再復刻」する。
尚、単独で調べたので誤字の可能性もあること、判読不能の箇所があったことを予めご了承願います。

佐々木亀二郎
松木米次
小林豊吉
関口勝美
小西徳次郎
髙嶋仁四郎
佐藤彦次
○湊卯之吉
三条○蔵
今村長蔵
藤原○平
老田○○

相髙友吉
岡野慶太郎
小林直次郎
堀市太郎
宗守●蔵 ●は示す偏に「力」
高橋寅三郎
森田栄八
宮杢羊之助
米川清
老田甚平
萩原米次郎
奥野栄次郎

山本栄太郎
前本慶次
芳賀貢
香川武平
上野与七
小上次市
小上要太
笹倉竹蔵
松下ソト
三好藤○
菊地倉蔵
○○晋蔵

森下○吉
佐藤繁二郎
石丸長○
小上茂
大坪○○
大坪吉○
遠藤久○
藤○徳○
香川○○
参考文献
京極町史編纂委員会1977『京極町史』京極町
京極町1981『我が母校錦小学校閉校記念誌』京極町教育委員会・錦小学校閉校行事実行委員会
北海道新聞1981「75年の歴史に〝幕〟=京極の錦小で閉校式= 最後の児童小上兄弟が別れの言葉」『北海道新聞後志版』昭和56年3月31日
京極町教委委員会2018『旧東花小学校・旧錦小学校校区から見た地域』
「角川日本地名大辞典」編纂委員会1987『角川日本地名大辞典1-[1]北海道上巻』角川書店
京極町錦は農村集落であり、高度過疎集落である。
開拓は明治40年に富山県出身庄川農場が開拓したのが始まりである。富山県庄川の改修工事により川流域の耕地を失った者のために375町歩の未開地貸付の許可を受け小作人75戸を募集し、明治40年5月より入植を開始したが事情により同年9月小作地を開放して各個人に貸付許可されるに至った。
また、明治45年福島県会津団体(秋山辰四郎総代人35戸)も錦地区の開拓に従事していった。
学校は倶知安第六尋常小学校(現京極町公民館)に通学していたが、通学は山越え、沢越えの遠路であり冬季は通学困難であったことから地域住民は倶知安村役場(注1)に陳情を重ねた。その結果、明治39年10月に倶知安第六尋常小学校カシプニ特別教授所として開校した。
字名の由来はアイヌ語「カシプニ」の和訳である「ニシキ科マユミの木」であり、昭和16年の字名改正により錦となった。それ以前は「9区」「12区」「13区」と呼ばれ、ササゲ・除虫菊・バレイショを栽培していた。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
明治39年 倶知安第六尋常小学校付属カシプニ特別教授所として開校(10月)
明治43年 東倶知安第一尋常小学校付属カシプニ特別教授所と改称(4月)
大正 2年 東倶知安第三尋常小学校と独立(10月)
昭和11年 高等科分教室併置(9月)
昭和13年 東倶知安第三尋常高等小学校と改称、校舎移転(12月)
昭和16年 東倶知安第三国民学校と改称(4月)
字名改称により錦国民学校と改称(4月)
昭和22年 錦小学校と改称(4月)
昭和56年 閉校(3月)
中学校
昭和22年 錦中学校開校(4月)
昭和45年 閉校(3月)
(注1)当時、京極町は倶知安村に属し東倶知安と称していた。
閉校時の記事を掲載する
75年の歴史に〝幕〟=京極の錦小で閉校式= 最後の児童小上兄弟が別れの言葉
「【京極】戦前まで地域の中心校であった錦小学校の閉校式が29日、中山後志教育局長をはじめ阿部町長、地元有志、札幌、室蘭など道内各地の同窓生など合わせて170人が参加して行われた。
式では阿部町長が「児童のよりよい教育を進めるため閉校する」と告辞を述べ、歴代校長、現旧教職員、歴代PTA会長に感謝状が渡された。
続いて最後の児童となった小上淳一君(6年)幸樹君(3年)の兄弟が壇上に上がり、「錦小学校よ、さようなら」と別れのことばを述べた。
江川校長は「毎年毎年春はやってくるし、草木が芽をふき小鳥がさえずるけれども、昭和56年の錦の春は学校のない春で、75年前に戻った春になる。先生がたも、小上兄弟も一生忘れることの出来ない春だ。新しい春に向かって錦魂を燃やそう」と名残りを惜しみ、最後は全員で「ふるさと」を斉唱した。
同校は明治39年(1906年)10月11日、当時倶知安村の第六尋常小学校(現京極小学校)付属カシュプニ特別教授所として創立、大正3年(1914年)には東倶知安村第三尋常小学校として独立、東カシュプニなど2つの分教場を持つ中心校となり、大正から昭和19年までは150人もの児童、それに高等科生徒を合わせると200人以上の学童でにぎわっていた。
これまで小学校、高等科、中学生、それに大正時代の補習科生など合わせると延べ2000人の卒業生を送ってきたが、昨年春は児童4人となり、さらに8月からは2人が転出、小上兄弟の2人に減ってしまったことから、京極小に統合されることになった。」(『北海道新聞後志版』昭和56年3月31日)

平成30年2月、HEYANEKO氏らと京極町脇方探訪後に訪ねた。

公共の建物である「寿の家」は使われておらず、うず高く雪が積もっている。

昭和15年2月開局・昭和51年6月閉局の錦郵便局。
閉局後、一般の方が局舎を使っている。

この上に校舎があった。スノーシューを履いて進む。
(画像提供 HEYANEKOさま)

校舎は既に解体されており、だだっ広い風景が広がっていた。

何かの小屋を見つけたが、この時は分からなかった。

点在する家屋。
HEYANEKO氏が何かを見つけ、声が聞こえた。

見ると、馬頭観世音の碑である。

学校より手前の風景。
正面に見える建物は集乳所の跡である。

少し月日が流れ、6月に再訪を果たした。
集乳所の建物は存在感がある。

雪に埋もれていた馬頭観世音の碑は大きかった。
別な言い方をすれば、馬頭観世音の碑が埋まるくらい雪深い集落である。

寿の家は健在である。
建物左に何か見えた。

地神さまとお地蔵さまである。
お地蔵さまの建立年は分からなかったが、地神さまは大正11年9月建立された。
最後に、地神さまに彫られた名前をここに「再復刻」する。
尚、単独で調べたので誤字の可能性もあること、判読不能の箇所があったことを予めご了承願います。

佐々木亀二郎
松木米次
小林豊吉
関口勝美
小西徳次郎
髙嶋仁四郎
佐藤彦次
○湊卯之吉
三条○蔵
今村長蔵
藤原○平
老田○○

相髙友吉
岡野慶太郎
小林直次郎
堀市太郎
宗守●蔵 ●は示す偏に「力」
高橋寅三郎
森田栄八
宮杢羊之助
米川清
老田甚平
萩原米次郎
奥野栄次郎

山本栄太郎
前本慶次
芳賀貢
香川武平
上野与七
小上次市
小上要太
笹倉竹蔵
松下ソト
三好藤○
菊地倉蔵
○○晋蔵

森下○吉
佐藤繁二郎
石丸長○
小上茂
大坪○○
大坪吉○
遠藤久○
藤○徳○
香川○○
参考文献
京極町史編纂委員会1977『京極町史』京極町
京極町1981『我が母校錦小学校閉校記念誌』京極町教育委員会・錦小学校閉校行事実行委員会
北海道新聞1981「75年の歴史に〝幕〟=京極の錦小で閉校式= 最後の児童小上兄弟が別れの言葉」『北海道新聞後志版』昭和56年3月31日
京極町教委委員会2018『旧東花小学校・旧錦小学校校区から見た地域』
「角川日本地名大辞典」編纂委員会1987『角川日本地名大辞典1-[1]北海道上巻』角川書店
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