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滝上町拓雄

滝上町拓雄(令和元年5月25日探訪)

滝上町拓雄は戦後開拓集落である。
昭和20年8月、疎開者5名(神奈川県・大阪府・横浜市)が入植したのを契機に昭和21年5戸(室蘭・上雄柏)、昭和22年8戸(上雄柏・高知県・樺太・満洲)、昭和23年3戸(上雄柏、満洲)がそれぞれ入植して集落が形成された。
入植当時、上雄柏出身者は家から通っていたが引揚者や疎開者は丸太で家の骨組みをつくり、屋根と壁はタモやガンビの皮、ササなどでつくり入居しながら開拓した。
昭和25年、町で区制を施行したとき、開拓の「拓」と雄柏の「雄」の文字をとって「拓雄」(タクユウ)と改称した。
子ども達は当初、上雄柏小学校へ通学していたが冬季の吹雪やクマ出没の危険もあり、住民らは拓殖学校の設置を懇願した。
その結果認められ、昭和25年6月設置認可、昭和26年1月上雄柏小学校拓雄分校として開校した。
学校の沿革は以下の通りである。

小学校
昭和26年 上雄柏小学校拓雄分校として開校(1月)
昭和29年 台風15号により校舎倒壊(9月)
 同年    校舎復旧(12月)
昭和31年 拓雄小学校と改称(4月)
昭和43年 閉校(3月)

中学校
昭和33年 拓雄中学校開校(4月)
昭和43年 閉校(3月)

昭和30年には学校前に営林署小屋、木材業者の事業飯場、秋保商店、営林署物資部が出来て風倒木ブームの活気に満ちていた。連続の凶作にあえぐ住民らは挙って林業に従事した。
昭和36年4月、農村電化通電式が行われたが同時に離農も少しずつ現れ始めた。離農者の戸数は以下の通りである。

昭和34年 2戸
昭和38年11戸
昭和41年 3戸
昭和42年 6戸(全戸離農) 

『教育月報』1957年1月号に掲載された拓雄小学校の記事を掲載する。
4 滝ノ上町拓雄小学校(9月8日)
早朝、朝日を出発した車は、西興部村の中藻、上藻をまわって滝ノ上町に入る。拓雄は濁川から22粁の奥で全くの山峡、車はエンジンの音高くカーブに気をつけながら前進、深山は初秋の香りををただよわせながらも、3年前の15号台風による風倒木は今なお見るも無残な姿を見せ、当時のものすごさを物語っている。
予定時間を過ぎてやっと拓雄着、無電燈地帯とあってテープーコーダー、オートスライド、人形劇等子供も大人も喜びにわく、夜は7時から校庭で野外映画200余名の観衆だがどこにこんなに住んで居るのかと不思議なくらい。
午後10時半映画終了、再来を期し一路滝ノ上の宿舎に向う。一同疲れ果てる。今日の走行路距離121粁。」(原文ママ) 浅利清一「へき地を行くあばしりの開拓部落訪問」『教育月報1957』

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令和元年5月、HEYANEKO氏らと訪れた。
上雄柏方面を望む。

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この先に学校がある。

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校門が見えた。

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拓雄中学校。
学校跡へ到達した。

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学校跡は整地されている。

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校舎の基礎が残っていた。

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校舎の煙突。

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記念碑が見える。

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記念碑を拡大。
拓雄 開拓地 小中学校 跡

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学校隣接地の平地。
建物があってもおかしくない広さなので商店や営林署物資部の建物が在ったのだろうか。

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学校より奥にも屋敷はあったが、行く術が無いのでここで引き返すことにした。

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旧道を歩いて帰る。
拓雄の学校前まで北紋バスが1日2回運行(昭和32年~36年)していた。

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帰りがけ、屋敷跡を見つけた。
屋根しか残っておらず、屋敷か倉庫かは判別できなかったが、この地にも人々が暮らしていた。

参考文献
浅利清一「へき地を行くあばしりの開拓部落訪問」『教育月報1957』北海道教育委員会
引地正志1968『拓雄のあゆみ』滝上町教育委員会
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質問があります。

初めまして。いつもtwitterやホームページを楽しく読ませてもらっております。立ち入り禁止の看板が映っていますが、このような場合は無許可でズカズカ入っていけるものなのでしょうか。

Re: 質問があります。

荒川諒さま

コメント有難うございました。
お訊ねの件ですが、標識は「通行止め」であって「立入禁止」ではありません。
仮に現地で訊かれたら学校跡地を調べる旨は申しますが、それでも駄目でしたら諦めます。
このようなお返事で宜しいでしょうか。もしありましたら上記のメールアドレスにお知らせいただけたら幸いです。

No title

通行止めになってるのは学校より先にある小さい橋が
増水で前後の道路が削られて通行不能になったからです
1997年に行った頃にはまだ通行可能でした
橋の向こうは通行止め横のぺぺロ大橋渡って少し行ったところの左分岐から行くことは可能です
ぺぺロ大橋はある議員が平成期に強引に進めた白滝への林道工事の産物で拓雄が健在だった時代にあった軽便鉄道の橋脚跡を再利用して作られてます
今はその議員の死で工事はとん挫し白滝への途中で尽きてる長大な道路が荒れるだけになってましたが
最近は奥地にある滝を見に行くバスツアーもやってるみたいです

Re: No title

貴重な情報有難うございました。また、遅くなってしまい申し訳ありません。
仰有る通り、確かに拓雄の奥へは行けませんでした。
道路が荒れてしまったのは残念ですが、滝を観に行くツアーで人々が来るのは良いことと思います。
少しでも拓雄の歴史を知って貰えたら…と思う次第です。

No title

拓雄の情報ありがとうございます。
自分は拓雄で生まれ、小学校を卒業しました。
校庭に幕を張って観た映画のことを昨日のことの様に思い出します。家族は先に帰ってしまい
真っ暗の夜道を熊の出てくるのを恐れながら、一人で帰ったのでした。当時としては最高の
娯楽でした。木材を満載した森林鉄道のこと、スキーで通った学校、硬雪の上を自転車に乗った
こと。バスは往復ではなく、夕方拓雄に着いて祖父母の家に泊まって翌朝、街に下がっていました。
祖父は地区の区長をしていて、電気導入事業の途中で倒れ亡くなりました。
とにかく悲しいことも楽しいことも凝縮された思い出とともにあるのが我が故郷なのです。

Re: No title

かときちさま

貴重な情報有難うございました。
当時の拓雄の話は貴重です。何度も拝見致しました。
手元に『拓雄のあゆみ』という文献のコピーがありますが、進呈したく思います。
恐れ入りますが、私のメールアドレスにご連絡先をお知らせいただけますでしょうか。どうぞよろしくお願い致します。

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No title

ブログにある浅利清一様は社会教育主事として過疎地の学校を巡って映画等を見せていたのです。その方が網走湖荘の社長になったのです。拓雄に来られた1ヵ月後にお父さんを亡くされていたなんて。すごい人生ドラマがあったとは過去に宿泊させていただいた時には全く知りませんでした。近く泊まりに行きたいと切に思います。

Re: No title

お返事有難うございました。
浅利さまの人生は私も驚きました。この頃、視聴覚教育として紙芝居や映画をクルマに載せ、網走管内のへき地校を巡っていました。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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