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紋別市八十士

紋別市八十士(平成30年10月・平成31年2月探訪)

紋別市八十士は農村集落であるが、かつては砂金が取れた。
明治39年八十士砂金山の発見で入地者が増えたが、明治43年に西巻開拓団長率いる山形・富山の両開拓団が入地、続いて新潟県人渡辺駒蔵ほか2名、原延孝、峰田新七らが入地、定住し始めた。子弟は小向尋常小学校へ通学していたが八十士からは遠距離であった。
大正10年、紋別尋常高等小学校所属八十士特別教授場として開校した。
その後、昭和18年教員の逝去で欠員が補充されないまま昭和23年まで休校となった。
戦後、引揚者の入地で一時校舎をその住宅として活用した。それらの子弟を加えて児童数が増加し、昭和22年4月小向小学校八十士分校と改称、昭和29年八十士小学校と改称した。(注)
しかし昭和40年以降児童数は漸減し、昭和47年3月29日閉校した。

小学校
大正10年 紋別尋常高等小学校所属八十士特別教授場として開校(2月)
 同年   小向尋常小学校所属に変更(9月)
昭和16年 小向国民学校八十士特別教授場と改称(4月)
昭和18年 休校
昭和22年 小向小学校八十士分校として再開(4月)
昭和29年 校舎新築
 同年   八十士小学校と改称(10月)
昭和47年 閉校(3月)
(注)『北海道教育関係職員録』昭和22年度には「八十士」の名前は掲載されていなかった。

KIMG3484.jpg
平成30年10月、K.T氏と訪れた。
学校より手前の風景である。

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八十士小学校の記念碑が見えた。

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神社の鳥居もある。

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鳥居をくぐったが社殿は見当たらなかった。

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校舎は崩壊寸前である。

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もう、長く持たないかもしれない。

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屋根も抜け落ちてしまっている。

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トイレは辛うじて残っていた。

KIMG3764.jpg
平成31年2月、HEYANEKO氏らと再訪した。

P1130660.jpg
学校より奥の屋敷跡。
外壁とサイロと、野生化したイチイ(オンコ)の木が佇んでいた。

参考文献
紋別市史編纂委員会1983『新紋別市史下巻』紋別市
2012『文芸オホーツク21号』紋別市文化連盟
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台所?に残されてるものからいろいろ判定できそうな…

校舎を住宅として活用した…とありますが、写真の台所の様子などは、その時の名残なのでしょうか?
それとも、もともとの造りが校舎と教職員(主に教職員が居住してるけど、分校なんでこの場合教員)が
一緒になった学校校舎だったのか?、それとも、閉校後がもう一回住居になって人が暮らしたとか…。
どのように思われますか?
・・・まさか住宅の一部を家庭科室と共用?みならいかのん…それはありえそうにないぃ…

いつも思いますが、トイレっていうのは本当にがっしり造られてるんだな!ってば思います。
・・・レンガの煙突くらい頑丈?はじめっち

ちょっとむかしの写真を見てみると、手入れされていたかどうかはわかりませぬが、
けっこう、がんばって、ふんばって、建っていたような気がするっす。
50年近い歳月は、やっぱし長いもんなのっすね。
・・・やっぱ弘道小学校とか志文小学校とかと比べてもたくなるっすゆたか

あたいはむずかしいこたぁよぐわがんねぇけどもさ、上古潭じゃ神社の屋根跡が見つかったけど、
ここじゃ見つからなかったってのは、自然崩壊とかじゃなくて、地域の人方が神社さんを終う時に
みんなで解体して、同系列の神社(異系列でもいいかもなのだ)や寺で供養みたいなことやったのかもなのだ。
・・・そういう点では上古潭は人が住んでた証として残したのかもなのだつるみんわからんけどなのだ

Re: 台所?に残されてるものからいろいろ判定できそうな…

お返事有難うございます。
一緒に訪れた方の話によれば、閉校時の建物のつくりが若干違うそうです。
憶測で話できませんのでこれ以上は控えたいと思います。

トイレは割と最後まで残る傾向が多いです。
神社の社殿が無いのは仰るとおり、合祀したと思いますが鳥居が残っているだけでも
「神社があった」ことを伝えてくれるので良いと思います。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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