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紋別市上古潭

紋別市上古潭(平成30年10月・令和元年5月探訪)

紋別市上古潭は農村集落である。
大正元年福島県人15戸(武山勇作団体長)が入地したのが始まりである。
その後も入地者が現れはじめたが通学区域は中立牛で、最も遠いところで12キロ離れていた。
村当局に学校設置の要望を出していたが財政上難しいため、集落で校舎、備品全てを寄付することで認可を得た。「沿革誌」によれば「上古潭部落一七戸、部落総出動ニテ五尺余ノ深雪ヲ除キ各自刻苦勉励ス」「校舎ハ間口六間奥行四間ニシテ教室一六坪住宅八坪、当時ノ教授場トシテ優ナルモノ」とあり、大正9年5月5日立牛尋常小学校所属上古潭特別教授場として開校した。
学校の沿革は以下の通りである。

大正9年  立牛尋常小学校所属上古潭特別教授場として開校(5月)
昭和4年  中立牛尋常小学校所属上古潭特別教授場と改称
昭和6年  上古潭尋常小学校と改称(3月)
昭和11年 校舎新築
昭和16年 上古潭国民学校と改称(4月)
昭和22年 上古潭小学校と改称(3月)
昭和37年 校舎・へき地集会室・給食室・青年学級室新築
昭和45年 閉校(3月)

閉校記事を掲載する。
尚、記事の鴻輝小の記事は割愛する。

鴻輝小 寂しく廃校式 上古丹小 卒業生とも一人 相つぐ離農で過疎現象
「【紋別】年々深刻になる過疎化の波にもまれて市内で2つの辺地校が21、22の両日、教育の歴史にピリオドを打った。一校は鴻輝小、もう一校は上古丹小で、それぞれ15年、50年の歩みの幕を閉じ、開拓農家の相次ぐ離農で最後の卒業生は両校ともたった1人というさびしさだった。(中略)
一方、50年の長い歴史に閉幕を告げた上古丹小は上渚滑から20キロ奥にあり、大正9年5月、立牛小の特別教授場として創立。当時、17戸の開拓者が入植。20人の児童数でスタートした。昭和6年、上古丹小として独立校になったころから終戦後まで部落人口はゆるやかに増加して約40戸、児童数も40人を越えたこともあった。
 しかし38年ごろから始まった冷害、凶作で毎年3-4戸離農するという極端な減少が続き、現在は6戸。これに比例して児童数もグングンと減り、44年は5人でスタートしたものの、3人が離農で転校、いまは菊地誠さんの長女、初江さん(12)と岩井直義さんの二男、泰三君(10)のたった2人。その初江さんも卒業して市教委も泰三君を中立牛小へ編入、ことし限りで廃校することにした。
 22日の卒業式には2人とも元気よく登校。川越完校長が『50年間、開拓の歴史とともに歩んできたものが閉鎖されるのはさびしいが、新しい学校でまた一生懸命勉強してほしい』と2人を励ました。このあと市教委など関係者20人のほか部落の人たち20人も出席して閉校式が行なわれ、出席者は創立当時の思い出などをなつかしそうに語り合っていた。」(『北海道新聞網走・北見版』昭和45年3月23日)

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平成30年10月、K.T氏と訪れた。

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紋別市が建立した記念碑。

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これも学校の記念碑である。
同型の記念碑は、上立牛にもある。

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上古丹の墓地を示す看板。

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墓地への道は続いているが、何もないそうである。

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その道の名は「上古丹線」である。

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学校の向かいには神社があった。
「上古潭神社跡」とある。

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藪をかき分けると、社殿の屋根があった。
集落の名残である。

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令和元年5月、HEYANEKO氏らと再訪した。
記念碑は静かに佇んでいた。

参考文献
北海道新聞1970「鴻輝小 寂しく廃校式 上古丹小 卒業生とも一人 相つぐ離農で過疎現象」『北海道新聞網走・北見版』昭和45年3月23日
紋別市史編纂委員会1983『新紋別市史下巻』紋別市
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「ウエン」だったんですね…

こちらをずっと「かみこたん」と読んでました。下古潭・中古潭とかないのに…。
「上立牛」は「かみたつうし」でいいみたいだそうで…。立牛小学校は知ってましたが、
上立牛小学校があるのは知りませんでした。
・・・平気で「上古潭」なんて言ってた時のこと思い出すと顔から火が出るぅ…みならいかのん

20数年前(1994~1995頃)にまだ現役の中立牛小学校を見ました。
小中併置校だった名残か、平屋なのに、校舎の敷地面積はべらぼうに広くて、
当時5人くらいしかいなかった児童のちょうど下校時間に当たったらしく、玄関から
わらわらと児童が走って出てくるのを見たりしてました。今だったら通報ものかもです。
そういえば、学校前にまだ商店がありまして、そこでパンとかジュース(ファンタアップルかも)など、
遅いお昼の買い食いなんかしてました。
・・・昼食&情報入手&不審者じゃないアピールをしたつもりはじめっち

神社の屋根が見つかるとは、これは非常に幸運なことなのっす。
集落がなくなった後、何も手が入れられなかったんだろか?っす。
・・・きっと自然な崩壊だったのっすゆたか

あたいはむずかしいことはよくわかんないけんども、たしか中立牛が酪農の割合が多そうだったから、
上古潭の離農した後が(ここいら周辺の)牧草地になっていそうだけど、そうでもなさそうなのだ。
・・・上立牛と同じような感じなのだつるみん

Re: 「ウエン」だったんですね…

お返事有難うございます。今年もどうぞ宜しくお願い致します。
中立牛は、その頃は現役でした。旧商店の建物は健在です。
神社は合祀はしたと思いますが、建物は自然倒壊に任せたものと思います。
学校や神社の碑、墓地入口の看板くらいでしょうか。集落の名残はそれだけでも満足です。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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