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紋別市上立牛

紋別市上立牛(平成30年10月・令和元年5月探訪)

紋別市上立牛は農村集落である。
『北海道地名誌』によれば大正2年頃より開拓が始まり、イモ、マメ、ムギ、ハッカを栽培していた。終戦前後には「ハッカ成金」も生まれたほどである。また造材が盛んで「冬山夏農」と言われていた。学校は大正6年7月5日、立牛尋常小学校所属上立牛特別教授場として開校した。
しかし、山奥という地理的な条件や農業だけで生活していくことができないことから昭和37年頃より離農が進み、昭和39年3月に閉校した。
学校の沿革は以下の通りである。

大正6年  立牛尋常小学校所属上立牛特別教授場として開校(7月)
昭和4年  中立牛尋常小学校所属上立牛特別教授場と改称(9月)
昭和6年  新校舎落成(9月)
昭和9年  上立牛尋常小学校と改称(3月)
昭和16年 上立牛国民学校と改称(4月)
昭和22年 上立牛小学校と改称(4月)
昭和28年 校舎増改築
昭和39年 閉校(3月)

『網走教育第91号』(昭和31年)に上立牛の集落や学校の様子が掲載されていたので紹介する。
走る公民館
5 紋別市立上立牛小学校(9月9日)
「今日の会場はお祭りをくり上げての歓迎ぶり、熱心な青年団員は早々手伝いに来て準備その他色々と協力して呉れる。青年の中にはいつかのい地区幹部講習会に顔を見せ熱心に研究していたその顔もみえ懐かしく思う。午後1時半予定のプロに入る。歌の指導からはじまってオートスライド、人形劇、テープコーダー、いずれも予想以上に喜ばれ、観衆の老人の中には〝今日まで長生きしたかいがありました。〟などと云われる方もあり、我々も来たかいがあったと元気づく。そのあと小野教育長さんの時事解説、舘員の部落作りと団体活動の講和、そして座談会、わずかな時間ではあったが〝冷害にたえ得る農業経営〟〝電気をつけること〟〝道路の整備〟等切実な課題をとらえての話し合いがなされ、又明日に迫る演芸会に間に合わせようとお母さん方が涙ぐましい努力の中に作り上げた幕一式の披露など、さすがのお父さん方もほろりとしてうなる一場面。その後全員で〝開拓音頭〟〝燃えよかがり火〟を歌って踊って楽しいひとときをおくり、映画のあとは熊が出るというのでまとまって、小雨の降る中を名残りおしみつつ散会していった。併し青年達は明日に迫る演芸会の準備のため、かぼそいランプの下で練習をはじめる。この他に開設される青年学級もともしびに集まって実施して居るそうだが、なかなか大変であることが松岡校長先生からも聞かされ、御苦労なさって居られることが身にしみるようであった。」

KIMG3522.jpg
平成30年10月、K.T氏と訪れた。
上古潭と同型の古い記念碑である。

KIMG3524.jpg
学校より手前の風景。
学校より手前には17軒の建物があった。

KIMG3523.jpg
学校より奥は14軒、駅逓跡があった。
駅逓の跡地は未訪である。

KIMG3527.jpg
学校前の神社跡。

P1130830.jpg
令和元年5月、HEYANEKO氏と再訪した。

P1130831.jpg
別角度からみた神社跡地。
立ち枯れた木はご神木である。

参考文献
北海道教育委員会網走事務局1956『網走教育第91号』北海道教育委員会網走事務局
NHK北海道本部1975『北海道地名誌』北海教育評論社
『文芸オホーツク第21号(2012年)』紋別市文化連盟
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プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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