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中頓別町神崎

中頓別町神崎(令和2年3月7日探訪)

中頓別町神崎は農村集落である。
かつてはモペーチャン(茂兵知安)と称されていた。
明治32年兵知安に砂金ブームが湧いたが茂兵知安は地質的に新しく砂金は取れなかった。
大正7年岐阜県から遠藤徳太郎、川口義兵衛、菅原丑松、山形県より安達弁次郎、遠藤儀一郎らによって開拓が始まり、昭和7年奈良県より津川直一、伊藤金一、遠藤儀一、栗林市三郎、沓澤熊吉、渡辺清次、茶園タミゾ、中島金作、斉藤ミヨ松、高橋ツカエモン、土岐クラキチ、三上ヘイスケ、小山内三郎、北原貞雄、高山某の15戸が入植した。
学校の沿革は以下の通りである。

昭和10年 兵知安尋常小学校茂兵知安特別教授場として開校(12月)
昭和13年 字名変更により神崎特別教授場と改称(4月)
昭和16年 兵知安国民学校神崎分教場と改称(4月)
昭和17年 正勝国民学校と改称(4月)
昭和22年 正勝小学校と改称(4月)
昭和25年 校舎全焼(3月)
 同 年  新校舎落成(10月)
昭和29年 屋内体育館落成
昭和33年 風力発電施設完成(12月)
昭和50年 閉校(3月)

P1140233.jpg
令和2年3月、HEYANEKO氏と別れてからはA.D.1600氏と神崎を訪れた。
画面右手の住宅(教員住宅)が学校跡地である。

P1140234.jpg
ここに校舎があったとは思えない風景である。

P1140235.jpg
学校より先の風景。

P1140236.jpg
学校より先に残る屋敷跡とサイロ。

P1140237.jpg
サイロには「神崎」の名が書かれていた。

参考文献
中頓別町史編纂委員会1997『中頓別町史』中頓別町
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「神崎」はきっと、内地の地名なのでしょう

昭和40年代の1/50000の地図を手掛かりにしても、正勝小学校の所在地が特定できず、
何回か訪れた最後に、地元の方とお話ができた際には、「神社の近くだよ」とおっしゃられ、
それでもわかりませんでした。
サイロはすぐわかりましたが、教員住宅は…全く気付かず…、こんなのあったけ?です。
もう、15~30年前の記憶ですから…ずいぶん雑に調べたもんです、あはは…。
・・・上頓別の校舎がけっこうお気に入りでしたはじめっち

兵知安の分校として設立されたけど、兵知安の学校が閉校した後(高齢者施設?に転用)も、
茂兵知安は数年残ってたんすよね。最後は1学級3~4人だったそうっす。
閉校後は(140mくらいだけど)、峠を越えて上頓別へ登校したはずだけど、
鉄道も走ってて貨物の扱いもまだけっこうやってたはずだから、きっと大きな町に見えたんかなって。
・・・上頓別の唯一の雑貨屋さんまだやってんのかなっす?ゆたか

あたいはむずかしいことはよくわかんないけんども、
神崎の「正勝小学校」っていうからには、きっと、「神崎正勝」さんという方が、
開拓者の代表の一人で、学校を作るために尽力したから、地域の人が地域の名前
そして学校の名前両方を入れたのかな…ってば、今でも思っているのだ。
でも町の図書館で調べる時間も地元の人に聞く機会もないまま、
「自分の想像の夢」を壊さず、「これでいいのだ!」と思うことにしちゃったるのだ。
・・・うちのアホどもが「神崎正勝」や「大和幸」をPNにしてたことがあったのだつるみん

Re: 「神崎」はきっと、内地の地名なのでしょう

お返事有難うございました。遅くなってしまい申し訳ありません。
兵安の学校は閉校後、福祉施設として転用されていましたが閉鎖され、校舎は解体されました。
神崎の神社は帰宅後、Googleマップで確認しました。
学校名が何故、正勝に変更されたかは分かりませんでした。

道新読みました。

お久し振りです。以前昭和炭鉱の記事にコメントしたものです。道新の記事読みました。私もダムカード集めが止まっております。早く終息してほしいですね。
では、更新楽しみにしています。

Re: 道新読みました。

零戦さま

お返事有難うございました。また、拙稿を読んで下さり重ねてお礼申し上げます。あの一文は、連休の投稿募集の一文を読み一気呵成に書き上げました。
まだ公開していない記事もありますが、図書館が開館すれば調べあげてレポートしたいと思います。
また、今後は同人誌の製作・発刊も視野にいれています。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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