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様似町新富

様似町新富(平成23年10月23日探訪)

新富は元々「新様似」と呼ばれていた。
明治38年、39年、44年に合計30戸ほどの集団入植者が現れた。これが新富集落開拓の始まりであった。
明治42年7月7日 筒淵春蔵の居宅を改装し「岡二尋常小学校付属新様似特別教授場」として発足した。
現在地の新富197番地(旧名エショマナイ)に校舎移転したのは明治44年10月31日のことであった。
明治40年頃に水銀鉱山の開発が始まり精錬所が建設されたが、精錬方法が未熟であったため短命に終わってしまう。
大正末期や、昭和26年にも新しい精錬法を導入し好成績を挙げたが、いずれも短命に終わってしまった。

現在の校舎は昭和11年頃に建設された。これは「様似小学校統合20周年 開校100周年」という本(様似町立図書館蔵)の中の「新富小の歩み」という項目に出てくる。
「頃」と書いたのは、はっきりと明記されていなかった。ただ、「昭和11年 小学校ができた」と記されているそうである。
また、「新様似」から「新富」の名前の変更時期もはっきりしない。町史には「昭和16年 新富国民学校」と書かれているだけで、いつから「新富」という名前に変更されたか触れられていなかった。
新富国民学校は戦後、昭和22年に新富小学校と改称された。
戦後、新富集落にも数名の入植者が現れた。しかし、急傾斜面であることや作物が不作で終わったことから、昭和30年代初めに離農してしまった。
新富集落もこの頃より離農者が出始め、昭和44年、新富小学校は閉校となった。
しかし、新富小学校は閉校後「青年研修所」宿泊施設として転用された。その他の学校(岡田小学校・西様似小学校・冬島小学校)は閉校後、校舎は解体された。
青年研修所は平成16年頃まで活用されていたが、現在は閉鎖されている。
そして、新富集落も現在は1世帯のみとなっている。


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探訪時は激しい雨に見舞われた。

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玄関も封鎖されている。

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入れそうなところがあったので、内部へ入ってみた。
入った瞬間、かび臭い匂いでむせそうになった。

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「宿泊研修施設」というのは「アポイ自然の村」という名称だった。

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「第一教室」
町史から推定すると、恐らく小学校教室部分と思われる。

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便所
この辺りは、床が腐っていた。
危険なので遠目で確認した程度である。

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名称不明の部屋。
町史には「7坪」としか記載されていない。宿直室か?

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体育館。

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最近まで活用されていたみたいである。

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折角なので、管理人が生まれた年のも紹介。

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学校を出て、隣接する教員住宅と思われる廃屋。

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学校周辺の風景。
校庭だったところに道路が走っていた。

校門も現存しているが探訪時、大雨に見舞われてしまい、校門の撮影は諦めた。
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新富 アポイ自然の村

かなり時間が経ってますが、記事拝見しましてコメント致します(当方は東京育ちの札幌在住です)。長くなりますことお詫びします。
そうですか、新冨にいらっしゃいましたか。
ご覧になった 自然の村 は、国鉄・開発庁・気象庁などのOBが、都会の子供の自然体験機会喪失を憂えて設立した任意団体「国鉄北海道自然の村」、JRになってからは「北海道自然の村」がやっていた、要するにキャンプ旅行の類です。 多くの目的地は宿泊拠点として廃校利用でした。
国鉄・JRには出資は仰がず、国鉄の名称を冠することによる信用補完のほか、事務所の提供(旧駅時代の札駅の2階ESTA側、その後桑園)、運賃料金の特認割引などで協力を受けていました。 かつて国鉄新札幌駅長をしていたS氏などが事務局に詰めていました。 実務には触らないものの、国鉄北海道総局長~JR北海道社長が形式的に自然の村会長に就任する慣習になっていました。
様似(アポイ)のほか、熊石、豊富(サロベツ)、遠軽、本別、清水、占冠、島牧、南富良野、それから冬の美瑛などのコースがあって、現地では事務長1名(リタイアした社会人)、リーダー5人程度(大学生・看護学生)、参加者(原則、小4~中3)定員45人というのが基本になっていて、夏は東京発着の9泊10日(別に札幌発もありましたが、長く続きませんでした)で、連絡船利用~トンネル開通後は北斗星、時代とともに子供も長期の休みがとりづらくなって片道航空という変遷をたどったと聞いています。 各地の役場と教委が全面協力していました。
人気があったのは熊石(東京からの移動が近いので、子供の体力を心配した親が勧める)、様似(乗馬)、豊富(最北端)あたり。 様似では漁家分宿、親子岩磯遊び、アポイ岳登山が定番になっていました。
新冨では、エキノコックス対策で簡易水道と別に飲料水を手配したり、便所の臭気対策に周囲の蓬の葉を投入したりしていたはずです。 風呂のことはよく覚えていませんが、いわゆる五右衛門風呂かドラム缶を使っていたと思います。 私は昭和59年(小学生)、平成元年(高校生のリーダー見習い)でここに加わっています。 59年は大宮から新幹線、特急(はつかり)、連絡船、特急(北斗1号)、急行(えりも2号)の乗継ぎで様似に着いています。 平成元年は北斗星利用でした。 参加者募集の簡単な告知は全国版の時刻表にも出ていた筈です。 国鉄時代は交通公社、JRになってからはJR東日本の旅行部門が窓口になっていました。
事務局関係者とは私は平成8年頃までお付き合いがあったのですが、しばらくご無沙汰しているうちに募集の話も事務局も見かけなくなってしまい、最終年がどんな経緯だったのかは把握していません。 9泊もするようなツアーが社会的に受け入れられにくくなったのに加え、本格的な現在のコンプライアンス水準からすると、かなり危うい運営(野外活動の安全確保とか)をしていた側面もあり、旅行傷害保険こそかけていたものの、JR東やJR北海道として継続が難しくなったのではないかなあと思っています。
昭和末期から平成前半の、7-8月の道新地域面が保存されていれば、活動の様子を紹介する記事があると思います。緑の帽子を被った小中学生の団体で賑やかなものでした。
上記のような時期に展開されていた催しですので、事務局員・事務長だった皆さんは多くが鬼籍に入っているかと思われます。 リーダー連中がだいたい40-50代、末期の年少参加者が20代半ばくらいですか。

Re: 新富 アポイ自然の村

星影清か さま

コメント有難うございました。『自然の村』設立経緯や活動内容、大変興味深く拝見致しました。
特にJRの尽力は驚くべきものがあります。
仰る通り、現在では長期休暇の取得の難しさや万が一を考えたら運営出来ないと思いますが体験された方は生涯忘れられない、良い経験になったと思います。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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