当別町四番川
当別町四番川(平成24年4月30日探訪)
四番川は明治39(1906)年に開拓が始まった。当初は7戸しかいなかったが、翌年には15戸にまで増加した。さらに青山奥より浜益へ通じる道路工事が始まり、22戸に増加した。
部落の有志、小倉兵次郎、斉藤才太郎、松本亘らは部落民と協議し、同年6月に校舎を建設し、松本亘を教員として任命した。この時の児童数は19名であった。
明治42(1909)年1月まで松本が教鞭を執っていたが、都合により辞任したため山本辰次郎を委嘱して授業を継続した。
同年10月15日付で当別第三尋常小学校(後の青山中央小学校)四番川特別教授場として発足した。当時の児童は男子9名 女子9名の計18名であった。
大正8(1919)年4月1日 四番川尋常小学校と改称、昭和16(1941)年 四番川国民学校と改称、昭和22(1947)年 四番川小学校と改称する。
四番川小学校は2回、火災に見舞われた。
1回目は明治42年10月28日 校舎増築の際、人夫の焚き火不始末が原因で全焼した。この時は小倉兵次郎所有の倉庫を借りて30日より授業を再開し、明治43年5月に再建された。
2回目は昭和22(1947)年2月13日失火、校舎を含め付属する建物が全焼した。同年12月15日に新校舎が再建された。
昭和24年6月20日 NHK坂本アナウンサー他4名が取材に来る。同年7月3日に全国放送された後、道内外よりたくさんの反響が寄せられた。特に「波多野文庫」はその一つであった。
昭和26(1951)年12月、三番川地区より通学児童のために季節分室を設けた。これは12月より3月までの出張授業で林中孫十郎宅がつかわれた。
また、同年11月には弁華別中学校四番川分校を併置した。昭和33(1958)年4月に四番川中学校となる。
昭和37(1962)年9月に電気がついた。また10月には給食調理室も完成し、給食も始まった。
昭和42(1967)年4月 四番川中学校が廃校になった。
そして小学校も過疎化の波に逆らえず、昭和48(1973)年3月31日に閉校となった。
四番川小学校校歌 昭和44年4月28日制定
一 流れは清し 四番川 阿蘇山並の ふところに
ここに開きて 幾世霜 祖先の労苦 胸にしめ
明日は希望の 夢がわく
二 我が学舎は 四番川 桜も匂う 丘の上
視界開けし 平和鏡 肩よせあって 語ろうよ
明日は希望の 夢がわく
三 青山奥の 四番川 小さな胸に 火をともし
スクラム組んで 進もうよ 明日は希望の 夢がわく
四 光かかげよ 四番川 心明るく 胸はって
大きな瞳 輝やかし 互にきずく 児童会
明日は希望の 夢がわく

四番川小学校前の風景。
ここが四番川の市街地であった。
四番川小学校があり、神社もあり、そして商店や家屋もあった。
現在は農家の家屋が2戸と、季節営業の店があるのみである。

学校前より国道451号線 新十津川方面を眺める。
往時を偲ぶものは見受けられなかった。

学校跡手前にある建物。
教員住宅だろうか?内部を見ると瓦礫が散乱していた。

すぐ近くには、屋根の一部が残されていた。

学校跡地。
この雪の下に瓦礫になってしまった校舎がある。
探訪当時(平成24年4月30日)ですら、1メートル以上の残雪であった。

校舎跡地より国道451号線 新十津川方面。
へき地等級 4級の山間部の学校も過疎の波により過疎集落となってしまった。
四番川は明治39(1906)年に開拓が始まった。当初は7戸しかいなかったが、翌年には15戸にまで増加した。さらに青山奥より浜益へ通じる道路工事が始まり、22戸に増加した。
部落の有志、小倉兵次郎、斉藤才太郎、松本亘らは部落民と協議し、同年6月に校舎を建設し、松本亘を教員として任命した。この時の児童数は19名であった。
明治42(1909)年1月まで松本が教鞭を執っていたが、都合により辞任したため山本辰次郎を委嘱して授業を継続した。
同年10月15日付で当別第三尋常小学校(後の青山中央小学校)四番川特別教授場として発足した。当時の児童は男子9名 女子9名の計18名であった。
大正8(1919)年4月1日 四番川尋常小学校と改称、昭和16(1941)年 四番川国民学校と改称、昭和22(1947)年 四番川小学校と改称する。
四番川小学校は2回、火災に見舞われた。
1回目は明治42年10月28日 校舎増築の際、人夫の焚き火不始末が原因で全焼した。この時は小倉兵次郎所有の倉庫を借りて30日より授業を再開し、明治43年5月に再建された。
2回目は昭和22(1947)年2月13日失火、校舎を含め付属する建物が全焼した。同年12月15日に新校舎が再建された。
昭和24年6月20日 NHK坂本アナウンサー他4名が取材に来る。同年7月3日に全国放送された後、道内外よりたくさんの反響が寄せられた。特に「波多野文庫」はその一つであった。
昭和26(1951)年12月、三番川地区より通学児童のために季節分室を設けた。これは12月より3月までの出張授業で林中孫十郎宅がつかわれた。
また、同年11月には弁華別中学校四番川分校を併置した。昭和33(1958)年4月に四番川中学校となる。
昭和37(1962)年9月に電気がついた。また10月には給食調理室も完成し、給食も始まった。
昭和42(1967)年4月 四番川中学校が廃校になった。
そして小学校も過疎化の波に逆らえず、昭和48(1973)年3月31日に閉校となった。
四番川小学校校歌 昭和44年4月28日制定
一 流れは清し 四番川 阿蘇山並の ふところに
ここに開きて 幾世霜 祖先の労苦 胸にしめ
明日は希望の 夢がわく
二 我が学舎は 四番川 桜も匂う 丘の上
視界開けし 平和鏡 肩よせあって 語ろうよ
明日は希望の 夢がわく
三 青山奥の 四番川 小さな胸に 火をともし
スクラム組んで 進もうよ 明日は希望の 夢がわく
四 光かかげよ 四番川 心明るく 胸はって
大きな瞳 輝やかし 互にきずく 児童会
明日は希望の 夢がわく

四番川小学校前の風景。
ここが四番川の市街地であった。
四番川小学校があり、神社もあり、そして商店や家屋もあった。
現在は農家の家屋が2戸と、季節営業の店があるのみである。

学校前より国道451号線 新十津川方面を眺める。
往時を偲ぶものは見受けられなかった。

学校跡手前にある建物。
教員住宅だろうか?内部を見ると瓦礫が散乱していた。

すぐ近くには、屋根の一部が残されていた。

学校跡地。
この雪の下に瓦礫になってしまった校舎がある。
探訪当時(平成24年4月30日)ですら、1メートル以上の残雪であった。

校舎跡地より国道451号線 新十津川方面。
へき地等級 4級の山間部の学校も過疎の波により過疎集落となってしまった。
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No title
記事にある、四番川の場所をマップでみつけて喜んだり、
あの公衆トイレをみると、付近には本当に何も無さそう、など、
最近は、ナルセさんの記事を見ながらgoogleマップを辿るのが楽しく、
この辺かな、などと場所を予想してみたりしてます。
北海道のことを知る喜び、また味わわせていただきました!
あの公衆トイレをみると、付近には本当に何も無さそう、など、
最近は、ナルセさんの記事を見ながらgoogleマップを辿るのが楽しく、
この辺かな、などと場所を予想してみたりしてます。
北海道のことを知る喜び、また味わわせていただきました!
RE:No title
F090/Sさま
四番川はかつて、商店もあり、学校もありましたが今は何もありません。
そして、豪雪地帯でもあるのでこの探訪当時、正確には1,6メーター以上(私の身長とほぼ同等)の残雪でした。
まだまだ過疎地の写真はありますので、今後とも宜しくお願いします。
四番川はかつて、商店もあり、学校もありましたが今は何もありません。
そして、豪雪地帯でもあるのでこの探訪当時、正確には1,6メーター以上(私の身長とほぼ同等)の残雪でした。
まだまだ過疎地の写真はありますので、今後とも宜しくお願いします。
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