中川町大和

中川町大和(平成24年7月8日探訪)

大和は元々「ワッカウエンベツ」(飲水の悪い川、の意)と呼ばれていた。

大正3年、江川惣之助が117町歩払い下げを受けたことに始まった。大正5年5月21日 奈良県十津川村出身の泉谷政一が江川と契約を交わし、弟とともに江川農場に入植した。
大正7年、片岡久四郎、沢田熊一郎、田上清七、未森宗一の4名名義で江川農場を買い受け、片岡農場と呼ばれた。
しかし、この年の9月に検査官が現れ、20町歩程度しか草刈りができていなかったため売り払いの取り消しを受けてしまう。取り消しを受けた片岡らは関係機関に運動を働き、大正8年7月に片岡と角谷芳造の名義で払い下げを受け、泉谷に一切の管理を一任して5ヵ年で開墾することとなった。
大正10年に道路が開削されたが、ワッカウエンベツ川が蛇行し山すそも迫っていた。一直線上にならず、なかなか辿りつけないことから後の集団転出になる原因にもなった。

昭和時代に入ると、道の拓殖計画により許可移住民が昭和4年に30戸入植し、泉谷は活動写真の弁士の経験もあったことから昭和5年頃に故郷 奈良県十津川村で大和を宣伝し、数十戸を移住させた。
入植者が増えた頃より学校設置の問題が浮上し、昭和5年3月に上棟式を行い、同年5月21日「志文内尋常高等小学校所属稚右遠別特別教授場」として開校した。

昭和11年11月20日に「幸(サイワイ)尋常小学校」と校名を変更、昭和16年4月1日 幸国民学校と経て昭和22年 幸小学校となった。
この年、共和中学校幸分校を設置し、昭和27年 幸中学校として併置、独立した。

大和の主要産業はハッカ栽培であった。それは当時、中川村の主要産業の一つでもあった。
しかし、ワッカウエンベツ川の狭い流域に開けた集落であるため、度々地滑りを起こし交通不能となっていた。
そして、昭和37年の長雨と台風の被害が決定的となり、全戸離農することになった。ジャガイモや小豆は全滅、トウモロコシや大豆も二分作、飼料作物のエン麦は三分作、デントコーン、青刈り飼料が半作であった。ビート、ハッカは六分から七分作であったのがせめてもの救いであった。
ハッカは全滅しなかったものの台風の被害で交通が寸断され、道路復旧にも莫大な費用がかかることから話し合いを重ねた結果、「災害激甚農家移転対策実施要領」に基づいて全戸離農になった。

この探訪の直前、中川町佐久にて旅館業を営む藤田氏より大和の集落について伺ってみた。聞き取り結果を抜粋し、以下に記す。

「大和への道は狭く、馬が1頭通れるかと言う程度でササが生い茂り、熊も出没していたので一斗缶を鳴らしながら進んだ。幸小学校の児童(小6)がある時「熊が出た」と聞いた途端、親父の鉄砲を持ち出して熊を仕留めた。」

「大和には2つの橋がある。一つは共和のすぐ奥にある、集落入口の橋だがもう一つは集落へ行く途中にある。元々は橋もなく、夏場、水位が低下したときに住民が渡って共和や佐久へ行った。やがて、つり橋から一般の橋に変わるが、台風で流され、住民がいなくなってからは久しく放置された。」

「大和はハッカ栽培が盛んだったが、畑を作れる様な広大な土地ではなく、狭い土地や斜面に栽培していた。学校、寺院、駅逓もあったが住民は皆、貧しかった。 知り合いがあるとき、借金の督促に行くと「これで勘弁してくれ」と言って大きなアンモナイトの化石を貰った、と言う話も聞いた。 大和は化石がたくさん出るところなので、当時、幸小学校に勤務していた先生が授業そっちのけで子供たちと化石採りをしていた。」

昭和38年3月7日 大和集落の解散式とともに幸小中学校の卒業式と廃校式が行われ、同年3月31日付で廃校になった。へき地5級の「陸の孤島」だった。

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大和の集落入口。ここからずっと山奥へ進む。

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まだまだ進む。
道は整備され、思っていたほど悪くなかった。

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道なりにずっと進むと数本の大きな松の木があった。

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学校の防風林と思われる。
そして、ここに学校があったのだ。

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グラウンド跡と思われるが、既に植林されていた。

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目印の大きな松の木。
学校があったことを教えてくれた唯一の証人でもある。

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そして、学校の目の前には神社もあった。
これは神社の石畳である。

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神社の拝殿跡より石畳を見下ろしてみる。
ササに埋もれかけていた。

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神社の拝殿も自然に還ってしまっていた。

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学校跡地より奥の風景。
この奥にも人家があり、戦前は駅逓も設けられていた。
しかし今は、草木が生い茂り集落の面影は無くなっていた。
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No title

こんばんは
あの矢印の松 
確か板谷のT字交差点近くに有った2列の松ですね
あの松の列の間で松の切れたところに
板谷駅逓が有りました。中川で確かな駅逓跡が分かっているのは
板谷と共和だけなんだそうです。うっかり大和に書いてしまいました。

RE:No title

hiroさま
興味深い情報、有難うございました。
駅逓の跡が分っているのは板谷と共和なのですね。
大和の駅逓跡は学校跡地よりもさらに奥です。恐らく道はあるかと思いますが「進入禁止」であることと、大きな松の木(推測)、旧版地形図を頼りに探さないと難しいですね。
尚、大和の駅逓ですがエコールなかがわ(旧佐久中学校校舎)にその看板が展示されています。大和という名前ではなく「ワッカウエンベツ」と掘られています。ご参考までに。

駅逓

エコールなかがわに有った看板は僕も見ました。ワッカウエンベツ川には昔よく釣りに行きましたが
林道は川から離れているので奥には行かなかったですね。

去年までは松浦武四郎で歩いていましたが最近は駅逓がメインになってます。
碑の方は100所以上有るようですが、殆どの町では駅逓設置場所が
正確に分かっていない事が多くて、総ての駅逓後に碑が有るというのは市町村は希です。

道北では士別の温根別と美深町に駅逓の建物が残ってますが
トタンとアルミサッシで覆われ昔の面影はとても想像出来ません。
見た目一番きれいなのは留辺蘂町花園にある旧駅逓(五号佐呂間駅逓)でした。
人が住んでるので写真は撮ってませんが・・・
和訓辺や斜里にも有って、以外と建物が残っているので驚いています。

RE:駅逓

hiroさま

興味深い情報有難うございます。
すべての駅逓跡地に記念碑が建立されているところは少ないです。廃校よりも難易度が高いですね。
美深・温根別の駅逓は初めて知りました。いつか訪ね歩いてみたいものです。

とんぼさんやばったさんになれなかった未「不完全変態」のいたずらくがき

初めてお便りいたします。
ミドリさんという方の「旅(移動)する北海道」から、和訓辺について探していましたら、
貴ブログを訪問する機会に恵まれました。ありがとうございます。
何分、貴ブログの資料の多さ、正確さは(まだすべて読んでいないのでおこがましいも甚だしいですが)
折り紙つきだと思います。(もちろん折り紙をいう資格者ではありません)
とにかく、時間を見てゆっくりと拝見したいと思います。失礼があればお許しください。
元道民牛田初(もとどうみんうしだはじめ)

ラッシャー木村のファンなので、「中川町史」をなぜか持っているです。(町民でもないのに)
幸小学校には是非行きたいと思っていたんすが、いつも阻まれてしまうっす。
いつも斉藤茂吉の詩をみて帰ることになるっす。
路肩が弱いんで車が入っていけないのです。(神路小学校も船を持っていないのでやっぱりいけないです。)
活字に弱いんで、貴ブログのほうをゆっくり拝見していきたいと思うです。
・・・上茂宇津内や新登川にもいきたかった元道民水清豊(もとどうみんみずきゆたか)

あたしはむずかしいことはよくわかんないけれど、
台風がなければ、自然災害がなければ、もしかしたら集落が続いていたかもしれないのだ。
(遅かれ早かれそうなる運命だったかもしれないですが・・・)
・・・なんか日高本線を連想しちゃうのだ元道民上札鶴緑(もとどうみんかみふだつるみん)

自分らは道東に住んでいたので、道央・道南・道北はあまりわかりませんが、
それでも、歌登・遠別・天塩町には何回か伺ったことがあります。
今回、一部ではありますが、多くの映像資料と的確な文章(大学関係者の方とお見受けしましたが)に
ただ一日ボケェ~と見て、何も残していない自分らはまったく太刀打ちできないことを知りました。
後世に歴史のこういう残し方があったのですね。なんだかうれしくなりました。
・・・つれどもが失礼なコメントすいませんでした元道民沖密田歌音(もとどうみんおきひそたかのん)

Re: とんぼさんやばったさんになれなかった未「不完全変態」のいたずらくがき

はじめっち&ゆたか&つるみん&みならいかのんさま

コメント有難うございました。
資料は、旭川に住んでいた時は市町村史や郷土誌か、閉校当時の新聞記事をベースに調べてきましたが現在は、道立図書館で調べています。
場合によっては、図書館の相互貸借で閲覧して必要なところをコピーしています。

中川町立幸小学校は、林道をひたすら登っていくとあります。不自然な「木」が何本か生えているので
それを目印にするといいと思います。
神路は、列車の車窓からは見ていますが現地には降り立っていません。神路大橋落成記念の新聞記事も見たことがあります。

台風や自然災害がなければ、もう少し存続していたかもしれない集落は存在します。
ただ、歴史に「if」はないので、あくまで個人の私見です。極力私見を排し、事実と現状のみを紹介していきたいと思っています。

元々は「廃」なものが好きでしたが、いつしか郷土史に興味を覚え、廃校や廃村を調べ始めました。
これからも続けていきたいと思っています。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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