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美深町楠

美深町楠(平成24年7月8日探訪)

美深町楠は明治37年頃より入植が始まった。この時森高浅市、藤本常次、土田助太郎、坂東晴二、久保清太郎らが前後して入植したためこの一帯(楠)は「坂東農場」と呼称されていた時代もあった。

明治43年に福島団体が7戸入地したが、坂東農場の小作人として開拓に従事した。

子供たちは4~8キロ離れた恩根内第二尋常小学校(現 恩根内小学校・明治36年4月8日開校/平成20年3月31日閉校)に通学していたが、坂東晴二、北林栄吉、森高浅市、桝本芳太、中村実治らの尽力により大正2年3月3日 恩根内25線に特別教授場が設置された。これが楠小学校の開校である。

大正6年、辺別内(辺別毛内)特別教授場(現 清水小学校)の設置により通学区域が分割された。

大正15年4月1日 楠尋常小学校と改称し、独立。

昭和16年4月1日 中川郡楠国民学校と改称し、昭和22年4月1日 美深町立楠小学校と改称した。

楠小学校の校名変更直前である昭和22年3月2日 火災により校舎及び教員住宅が全焼した。この時、助教諭である宮川まきが殉職した。
火災後、板井辰雄が所有していた物置を仮教室として授業を継続した。

昭和22年10月19日 仮校舎の新築落成が行なわれ、その2年後である昭和24年6月17日 新校舎落成式が挙行された。

楠はナタネ・えん麦・トウキビの栽培が盛んであった。肥料もあまり使わず収穫は良かった。
大正6年頃より澱粉の製造が始まり、昭和初期には個人操業の澱粉工場が5~6軒あった。

美深町郷土研究会 前会長である式部義明氏(楠出身)はこう話す。
「…過疎化は他地区と同様、芋作りから酪農、現在3~4戸と減少しています…。」
過疎化の進行により、昭和40年3月31日 楠小学校は恩根内小学校に統合され、幕を下ろした。

最後に、学校名の由来について式部氏に伺った。
「…楠小学校は先日の通り、大正15年の教員が名づけたものとも思われますが、楠公(楠木正成)の崇拝であったかもしれません…」

大正15年当時の楠尋常小学校 教員は佐々木 泰氏である。この年に初代校長 川田得之助氏が着任しているが、大正15年8月28日付けとなっているので名付けは佐々木氏で間違いないと思うが、今となっては知る術も無い。

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美深町の北部に位置する楠地区。
走っている道路は、旧国道である。

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校舎が見えてきた。
跡地には公民館の分館が建てられている。

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公民館分館正面。
体育館は現在、農機具の収蔵庫として活用されている。

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学校の向かいには楠神社が今もある。

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学校周辺の風景。
バレイショ作りが盛んとなり、澱粉工場があったのも遠い昔の話になってしまった。
今は酪農家が数軒、点在する過疎の集落である。
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No title

こんにちは

校舎向かいの神社がいい味出してますね。神HEYANEKO様との合同探索以来、すっかり過疎地や廃村の神社に魅了されています(愛)。

美深も興味深い過疎地が多いので、これからも報告を楽しみにしています(愛)。

RE:No title

ラオウさま

HEYANEKOさまはこの分野でスペシャリストですので、右に出るものはいませんね。
全部とは云いませんが、学校の傍には神社が建立されています。
美深町はあと、小車と島呂布(シマロップ)がありますよ。今年もあちこち訪ね歩いて調べたいものです。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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