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幌延町浜里

幌延町浜里(平成25年6月9日探訪)

幌延町浜里は、日本海沿いの南北14キロに渡る砂丘地帯の間に位置する集落であった。

浜里は元々「音類」(オトンルイ)と呼ばれていた。アイヌ語で「沼へ行く道のあるところ」という意味である。
記録によると、寛政11年に伊能忠敬が稚咲内(ワッカサカナイ・現 豊富町)に測量基点を置いた。
後、明治3年に官設宿所が設置された。官設宿所の経営者は誰だったか不明である。

明治20年頃より天塩から稚咲内に通じる浜道路がつくられ、明治33年には駅逓が設置された。土地は季節的放牧場として利用された。

明治40年頃より下田牧場(南)、水口牧場(北)が経営し、大正5年頃まで音類特別教授場(南)で子弟の教育をしていたが中絶した。

その後、特筆すべきような出来事や産業もなく、戸数も少なかったため変化は見られない。

昭和7年 植村留助や水口藤三郎が主唱し、沙流村(現 豊富町)豊徳小学校分校として開校した。この時の児童数は11名であった。

しかし、10年後の昭和17年 児童減少に加え校舎焼失により廃校となる。若干の児童は天塩国民学校に通学していた。

戦後、昭和23年に国有林よりサロベツ川に至るまでとサロベツ原野南部一帯3,229Haが音類地区として開拓地に、同 昭和28年に国有林西部一帯が浜音類地区として750Haが開拓地にそれぞれ指定された。

開拓地として指定された昭和23年当時、主として山形県出身者と樺太からの引揚者 計102戸が入地した。

学校設置の気運も高まり、昭和24年10月1日 幌延村立音類小学校として開校した。

同年12月1日 幌延中学校音類分校を併置して開校、当時の人々は涙を流して喜び合った。

昭和27年4月1日 中学校が分校から独立し、音類中学校となった。

昭和28年 開発道路が完成し、また電化されるようになった。

昭和34年 字名改正により「浜里」に変更されたのに併せ、昭和35年4月1日付で「浜里小学校・浜里中学校」と改称した。

しかし、発展するかのようにみえたが水害や土地の痩薄、ニシン漁の不振が重なり、離農する人が次第に現れ始めた。
戸数の推移を見ると、昭和30年 51世帯282人 昭和35年 51世帯 259人であったが、昭和40年 27世帯124人 昭和45年 15世帯54人となっている。

昭和57年3月31日 幌延町の学校統合計画の実施により閉校した。

卒業生総数 小学校141名 中学校122名

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道道稚内天塩線を走っていくと、右手に学校があった。
倉庫が建っているところはグラウンド跡と思われる。

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記念碑が二つ建立されている。

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右にあるのは馬頭観音の碑である。

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そして、左にあるのが浜里小中学校の記念碑である。

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裏面には沿革が刻まれている。

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記念碑より下沼方面を望む。
集落の痕跡は何もない。

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同じく、記念碑より稚咲内方面を望む。
昭和40年代半ばの地図では学校隣接地に6戸、稚咲内方面に5戸の家があったがすべて無くなっている。

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天塩方面を望む。
かつては酪農業で賑わいを見せていたが、荒涼とした風景が広がる無人集落地帯となってしまった。
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先日はお疲れ様でした。
ホントに何にもないところで、あそこに集落や上中学校があったなんて信じられませんでしたね。きっと記念碑がなければ尚更わからないと思われます。記念碑を設置してくれた方々に感謝(激愛)

No title

ラオウさま

此方こそ、先日はお疲れ様でした。
記念碑がないと何もなく、素通りしてしまいそうな場所ですね。
記念碑を建ててくださった方々に感謝です。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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