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新十津川町盤の沢

新十津川町盤の沢(平成25年6月9日探訪)

新十津川町は元々、奈良県十津川村出身者が移住してきた町であるが、盤の沢は他府県人によって開拓された集落であった。

明治38年 道庁にて区画を施した上で個人貸付地として開拓が始まった。

この時、福井団体10余戸が移住してきた。

明治41年7月 上徳富尋常小学校所属盤の沢特別教授場として開校した。

大正12年9月27日 盤の沢尋常小学校と改称。

大正15年当時の在籍児童数は80名を数えていた。

昭和に入ると集落の人口も増え、昭和10年10月1日時点で121戸 729人の人々が暮らしていた。

昭和16年4月 盤の沢国民学校と改称。

昭和22年4月1日 盤の沢小学校と改称。同年5月1日 上徳富中学校盤の沢分校を併置。中学校分校は昭和28年4月1日に独立した。

昭和36年12月28日 校舎が全面的に改築・落成する。
また、この年に電灯線が架設され、電気が導入された。

昭和37年9月9日 屋内運動場が落成した。

昭和43年4月1日 字名改正により、それまでの「盤の沢」から「美沢」と変更になった。
これに伴い、校名も「美沢小中学校」と変更になった。

しかし、この頃より過疎化が進行していった。

特に昭和46~47年にかけ、減反政策の一環として造林を行なった。

これにより、約40戸が転出していった。

昭和48年4月1日 大和小学校美沢分校と改称し、在籍児童は同日付で雨竜町へ委託となり、休校となった。

それから11年後の昭和59年11月1日 廃校となった。


ところで、ここの盤の沢小中学校の校歌は往年の歌手 安西愛子氏と、地元の俳人の手によって作詞・作曲された。

作詞した土岐錬太郎(本名 金龍慶法)氏は大正9年10月1日 新十津川町で生まれた。

円満寺住職の傍ら、アカシヤ俳句会の設立、北海道新聞俳壇選者、現代俳句協会会員、後に分離した社団法人俳人協会評議員となった。

また、俳人活動以外にも民生委員・保護司・社会教育委員・選挙管理委員・教育委員などを歴任、昭和52年7月14日 57歳で逝去した。

作詞・作曲に至った経緯について、妻である金龍綵子氏はこう手紙に認めた。

「…私の記憶では当時の校長先生の依頼で作らせて頂いたと思います。当時、教育委員もしておりまして校長先生との交流がありました…(中略)…安西先生は遠方でおいで頂けずテープに吹き込んで送って下さいました…。」

「…安西先生が大きな声で「盤之沢小中学校の皆様 さあ元気に歌いましょう」と呼びかけられいいお声で歌って下さいました。私は我が家でそのテープを聞かせて頂きました…。」

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新十津川町より雨竜沼湿原方面へ行く直前、左折し山あいの道を進むと、忽然と体育館が現れた。

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学校より手前の風景。
未舗装の道をひた走る。
通い作で田んぼは維持されているが、家屋が見あたらない。

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学校より奥を望む。
奥にも田園風景が広がっているようだが、定住者は見られない。

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体育館の傍に記念碑がある。
下部には「雪深き 奥の冬道 燦々と 太陽そゝぐ 冬の道 渡りし幾橋 古郷 磐之沢 美津江」と刻まれていた。

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裏面には集落の沿革が刻まれていた。

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体育館を見ると、農機具の倉庫として転用されていた。

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黒板には卒業生の書き込みも見受けられた。

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教室棟は解体されてしまったが、体育館だけでも残されているのは有難い。

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もうひとつ黒板が残されていたが、当時の児童が書き残したものだろうか?

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金龍綵子氏の手紙より。

「…あの山奥に有名な安西愛子先生と、夫の土岐錬太郎の立派な誰がお書きになったかはわかりませんが校歌の額。それこそ世界遺産ならず大きな遺産だと思います…。」

校歌制定年度はわからなかったが、金龍綵子氏の記憶によれば「40年以上前に制定された」とのことである。
「昭和42年3月掲出」と記されているので、字名が改正される僅か1年前に制定されたのだろうか。

過疎化により廃校となり、住民も少なくなってしまったが「大きな遺産」は今も色褪せることなく誇示していた。
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No title

更新お疲れさまでした。
例の合同探索のフィナーレの廃校ですね。体育館が何ともいえないいい味を醸し出していましたよね。ここもグランド跡が広いのでテント、バーベキューにもってこいの跡地ですよね。是非とも再訪時にはナルセさんおすすめの空知肉とタマネギでやりましょう♡

あなたのラオウより♡

RE:No title

>ラオウさま

コメント有難うございます。
盤の沢については、金龍さまの情報が無ければ、ここまで調べることが出来なかったと思っています。
跡地での焼肉、機会があればやりましょう。

No title

自分の母方の祖母が盤の沢の生まれです!曾祖父母が、福井県大野郡下穴馬村とゆうかつて存在した村の出身らしく、1898年に移住したようです。2013年6月13日に調べて盤の沢に行きましたよ!ここを結構奥まで走りましたが、何処にかつて家があって住んでたのかさっぱり分かりませんでしたね。

Re: No title

コメント有難うございました。
その後、旧版地形図をみたところ学校より奥も家屋が点在していました。

家屋(屋敷)跡を見分けるポイントですが、
①平坦な土地に松やイチイ(オンコ)の木が残っていないか
②花(スイセン、ルピナス等)が咲いていないか
を確認しながら行かれると良いと思います。

No title

どうも有難う御座います。

書かれた情報を頼りに行ってみたい所なのですが、もう自動車がないので今は行けないんですよね。行けたら行きたいんですが。当時、学校もあった一本道を走りましたが、道の並びに家はあったんですかね?

Re: No title

ヨウさま

お返事有難うございました。遅くなってしまい申し訳ありません。
学校迄ですが、距離があるのでクルマがないと難しいと思います。かつては道沿いに家屋が点在していました。

No title

驚きました。
なんとなく地名を検索したところヒットしました。
今から55年ほど前に家族で住んでおりました。私は現在60歳です。かつて私の両親がこの学校で教員をしておりました。体育館の中の校歌を見て本当に驚きました。よく残っていてくれたと思います。
私がこの学校に入学した時は1年生7名、2年生も同じくらいの人数で1,2年生が同じ教室で勉強する複式学級でした。担任の先生は私の母親でした。
当時体育館の右側に技術教室があった記憶があります。グランドも当時結構広い感じがしてましたが写真で見ると狭い感じがします。学校敷地の周りに教員住宅がありグランドは私の遊び場でした。
調べていただき感謝しております。ぜひ私も行ってみたいと思います。

Re: No title

進藤 剛生さま

コメント有難うございました。また、在学当時のエピソード、興味深く拝見致しました。
探訪から月日が流れ、校舎も傷んできている可能性があります。私もいつか、再訪したいと思っています。

No title

私はここで昭和28年1月14日に生まれ、高校卒業するまでいました。
その後両親もここを離れ、私は今札幌にいます。校歌はよく先生から良くきかされていました。
4年生の時、葛籠(つづら)校長先生が担任で3年生と複式学級でした。先生によく勉強をききました。運動会は村中集まりお祭り騒ぎです。冬は校庭で学年ごと雪像をつくります。4年生の時はオットセイを作りよくできました。

もう一つ聞かされていたことがあります。明治のとき奈良県の十津川村で大災害がありここに移住して
新十津川とつけたんだよ。一旦滝川で落ち着きあの石狩川を、「いかだ」で荷物をのせ命がけで渡ったんだよ。美沢(盤の沢)学校でよく聞かされました。十津川村に行ってみたいとずっと思って、2011年に行ってみました。96パーセントが山で厳しい環境で生活しています。でも皆さん親切でした。

体育館がのこって、素晴らしいです。当時の先生が書いたと思います。

Re: No title

ガーネットさま

お返事有難うございました。成瀬健太と申します。
盤の沢の学校や集落のエピソードは大変興味深く拝読致しました。
奈良県十津川村の移住の話は存じ上げていましたが、改めて移住までの厳しい道のり、苦闘の連続であった開拓、今の風景があるのは先人たちのお陰と思います。

盤の沢は暫く再訪していないので、また機会を見て訪ねたいと思います。

プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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