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美深町小車 三条滝雄氏の証言

美深町小車(高度過疎集落)は既に2回にわたり取り上げているが、今回、小車集落の往時の様子について三条滝雄氏(85歳)に聞き取りした内容を掲載する。
尚、三条滝雄氏は平成25年9月17日 逝去された。


「美深町小車 再訪」 http://knaruse.blog94.fc2.com/blog-entry-65.html
「美深町小車」     http://knaruse.blog94.fc2.com/blog-entry-55.html


聞き取り日時 平成25年2月23日 午前8時30分~午前10時頃

小車集落は農事組合が別で2つに分けられていた。
小車大橋を渡り、現 小車会館のある辺りが「中島」と呼ばれ20戸の農家があり、奥地にある10戸の農家が「小車」と呼ばれていた。
主要な農作物はバレイショであった。

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私は昭和17~8年頃、水銀鉱山の関係した仕事に従事していた。主な作業は建築・土木であった。
鉱石は索道で運ばれ、精錬されていた。
精錬されて出来た水銀は一升瓶のような入れ物に入れられ、貨物列車で室蘭方面へ運ばれたと思う。

水銀鉱山で賑わいを見せていたとき、鉱山周辺には家族を含め300名の人々が暮らしていた。
しかし、終戦と同時に鉱山は閉山を迎え、300名の人々は散り散りになったが農村地帯は何一つ変わらなかった。

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小車は砂利道で道も悪く、大きな玉石が転がっており自転車に乗っていてもすぐ転倒した。
また、冬になれば雪がたくさん降り積もり、除雪も大変だったので町に除雪して欲しいと頼んだが、実際は人が多い集落や国道が優先されていた。

ある時、小車も除雪が入った。
一瞬喜んだが、後々聞くと美深-玉川間(国道275号)の道道が国道に昇格し、開発に伴った「余剰金」でやっただけにしか過ぎなかった。

小車は、人も学校もなくなってから舗装された。
本来は、そこで仕事をする人のために行うべきだが、行政上は人のためではなかった。

過疎地は後回しにされた。

御車小学校が廃校になることを聞き、反対運動をした。
「町内の楠、公徳もじき廃校になるから連携して反対運動を起こそう」と周囲に説得したがあまりすすまなかった。

御車小はへき地小中学校の対象となり、上川管内で第1号の統廃合となった。

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町内にある清水小学校の廃校の原因として、当時、清水小に中学校が併置されていたが恩根内中と統合し、遠距離通学しないように「寄宿舎」を設けた。
本来は中学生が対象であったが、小学生もそこに寄宿させ、町の理由付けとして学校を廃校にした。

小学校が1校無くなれば、膨大な経費が削減できるからだ。

私は57~8歳の頃に、現住所の恩根内に越してきた。
利便性があることと、当時、家族が病気で通院していたため小車からでは大変だと思い、4~5月頃に引越しした。

小車最奥に住まわれていた岩隈茂八郎さんの家は、現 小車峠の入り口のところであった。
水銀鉱の開発により、電灯がつくとのことで水銀鉱山の近くに引越しした。

小車峠(林道)は中川町板谷へ抜けられるようになっていた。

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少し進み、登って下った先に林道の事務所(兼宿舎)があった。
現在、大きな閉鎖ゲートとその先にロープが張られた程度のゲートがあるが、ロープが張られたところに宿舎があったと思う…。

画像出典 「美深町小車 再訪」 「美深町小車」より
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プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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