三笠市奔別沢(再訪・再再訪)
三笠市奔別沢(平成26年6月再訪・令和2年11月再再訪)
三笠市奔別沢は既に平成24年10月6日探訪し、レポートした。
日本の過疎地 三笠市奔別沢
今回、「学舎の風景」合同調査の一環として再訪したことをレポートするとともに、新しい情報を記していく。
奔別沢は戦後開拓によって出来た集落であった。
昭和26年 奔別沢開拓地として10戸入植した。
子供たちは当時、8キロ離れた奔別小学校へ通学していたが、冬期間は奔別や幾春別の親戚の家から通っていた。
当時の奔別小学校校長 石塚久直は奔別沢に分校を作ることを考案し、関係機関に働きかけた。
その結果、昭和31年1月19日 奔別沢分校が開校した。
教員として高橋鎮夫が赴任したが、児童数は4名であった。
この年、文房具雑誌が子供たちに配布された。
昭和33年頃の在籍児童数は13名を数えていた。(注1)
内訳は1年生5人 2年生3人 3年生3人 4年生0 5年生2人 6年生0である。
しかし、住民の転出により児童数が減少していった。
昭和38年5月 在学児童2人の転校が決まり、廃校となった。

奔別沢集落入口の橋。
集落側より奔別小学校方向を望む。

橋は一部崩れている。
平成24年の探訪当時も、この状態であった。

渡った先の風景。
ここも怪しい「ポイント」であるが古い航空写真や地形図を見ると、何も記載されていない。

奥へ進もうとしたら、目の前に子グマがいた。
母グマが近くにいることが予想されるので、探訪当時はこれより奥に進んでいない。

子グマと遭遇した地点より、手前側を調査することにした。

なだらかな上り坂が残されていた。
先へ進んでみる。

一面、だだっ広い風景が広がっていた。

どこに学校があったのか全く分からない。

もう1か所の「候補地」へ足を踏み込む。
この時、同行したLEVEL7G氏とともにササを掻き分けて進んだ。

植林された平地が広がっているが、奥に一段、高くなっている場所がある。

一段登った先の風景も、変わらなかった。

登った先より下を眺める。
下の段は「扇状」に広がっており、家屋が写っているが学校ではない。
今回も、跡地の正確な特定はできなかった。
ただ、「奔別沢」集落跡に足を踏み込んでいるのは確かである。

帰りがけ、本校である奔別小学校跡地も立ち寄った。
隣接地に幾春別小学校(移転前の校舎)が建ち、日本一の在籍児童数を抱えていた学舎も、奔別炭鉱の閉山により児童数が激減し、昭和48年3月11日に閉校となった。
参考資料として活用した「10年の歩み 1958.7 三笠市立奔別小学校」(昭和33年7月13日発行)の「奥付け」に記載されていた一文より。
『(前略)この小冊子が家庭のお父さんやお母さんそれにおばあちゃんそれに子供たちにまで手あかで黒光りするほどひろく読まれたらうれしいのですがまだ二十年、三十年。いや五十年も百年もつづくであろう奔別小学校の将来においてこのささやかな冊子が学校の歴史のよい資料として役立つことを信じて、私共の仕事を終ります。』
月日が流れ令和2年11月、A.D.1600氏と探訪した。

倒木でクルマでの探訪は無理と判断し、徒歩で行くことにした。
ここから学校跡地までは5.5キロ。

二つ目の橋を渡った先。奔別沢開拓集落入口。
空中写真を見ると、ここに1軒の開拓農家があった。

なだらかな上り坂を進む。

少し広い平地が見えた。かつての農地跡と思われる。

路面の至る所に水たまりができている。

奔別川の激流で道路がえぐれている。
迂回して先を進む。

地層が露わになっていたので見ると泥炭である。
山あいで日照も少なく、泥炭という条件の開拓は「苦闘」であったのは目に見えている。

足元を見るとクマの足跡がくっきり残っていた。
生きた心地がしない中、先を進む。

またも川の激流で道路がえぐられていた。

ひたすら先を進む。

学校跡地手前の道も川の水量でえぐられていた。

そしてようやく、奔別沢分校跡地に到達した。
学校跡地の決め手になったのは
①空中写真で校舎の屋根が写っていたこと
②奔別沢集落は南北に細長いので、子どもの通学を考えたら集落の中央に校舎を建てるのが妥当であること である。

学校跡地の対面には神社も建立されていたので神社跡も行ってみる。

神社跡は雪で何も見えなかった。

奔別沢分校跡地全景。
離村から50年以上の月日が流れ、集落の面影は消えようとしていた。
※(注1) 在籍児童数は「10年の歩み 1958.7 三笠市立奔別小学校」の奥付に記載されていた。
三笠市奔別沢は既に平成24年10月6日探訪し、レポートした。
日本の過疎地 三笠市奔別沢
今回、「学舎の風景」合同調査の一環として再訪したことをレポートするとともに、新しい情報を記していく。
奔別沢は戦後開拓によって出来た集落であった。
昭和26年 奔別沢開拓地として10戸入植した。
子供たちは当時、8キロ離れた奔別小学校へ通学していたが、冬期間は奔別や幾春別の親戚の家から通っていた。
当時の奔別小学校校長 石塚久直は奔別沢に分校を作ることを考案し、関係機関に働きかけた。
その結果、昭和31年1月19日 奔別沢分校が開校した。
教員として高橋鎮夫が赴任したが、児童数は4名であった。
この年、文房具雑誌が子供たちに配布された。
昭和33年頃の在籍児童数は13名を数えていた。(注1)
内訳は1年生5人 2年生3人 3年生3人 4年生0 5年生2人 6年生0である。
しかし、住民の転出により児童数が減少していった。
昭和38年5月 在学児童2人の転校が決まり、廃校となった。

奔別沢集落入口の橋。
集落側より奔別小学校方向を望む。

橋は一部崩れている。
平成24年の探訪当時も、この状態であった。

渡った先の風景。
ここも怪しい「ポイント」であるが古い航空写真や地形図を見ると、何も記載されていない。

奥へ進もうとしたら、目の前に子グマがいた。
母グマが近くにいることが予想されるので、探訪当時はこれより奥に進んでいない。

子グマと遭遇した地点より、手前側を調査することにした。

なだらかな上り坂が残されていた。
先へ進んでみる。

一面、だだっ広い風景が広がっていた。

どこに学校があったのか全く分からない。

もう1か所の「候補地」へ足を踏み込む。
この時、同行したLEVEL7G氏とともにササを掻き分けて進んだ。

植林された平地が広がっているが、奥に一段、高くなっている場所がある。

一段登った先の風景も、変わらなかった。

登った先より下を眺める。
下の段は「扇状」に広がっており、家屋が写っているが学校ではない。
今回も、跡地の正確な特定はできなかった。
ただ、「奔別沢」集落跡に足を踏み込んでいるのは確かである。

帰りがけ、本校である奔別小学校跡地も立ち寄った。
隣接地に幾春別小学校(移転前の校舎)が建ち、日本一の在籍児童数を抱えていた学舎も、奔別炭鉱の閉山により児童数が激減し、昭和48年3月11日に閉校となった。
参考資料として活用した「10年の歩み 1958.7 三笠市立奔別小学校」(昭和33年7月13日発行)の「奥付け」に記載されていた一文より。
『(前略)この小冊子が家庭のお父さんやお母さんそれにおばあちゃんそれに子供たちにまで手あかで黒光りするほどひろく読まれたらうれしいのですがまだ二十年、三十年。いや五十年も百年もつづくであろう奔別小学校の将来においてこのささやかな冊子が学校の歴史のよい資料として役立つことを信じて、私共の仕事を終ります。』
月日が流れ令和2年11月、A.D.1600氏と探訪した。

倒木でクルマでの探訪は無理と判断し、徒歩で行くことにした。
ここから学校跡地までは5.5キロ。

二つ目の橋を渡った先。奔別沢開拓集落入口。
空中写真を見ると、ここに1軒の開拓農家があった。

なだらかな上り坂を進む。

少し広い平地が見えた。かつての農地跡と思われる。

路面の至る所に水たまりができている。

奔別川の激流で道路がえぐれている。
迂回して先を進む。

地層が露わになっていたので見ると泥炭である。
山あいで日照も少なく、泥炭という条件の開拓は「苦闘」であったのは目に見えている。

足元を見るとクマの足跡がくっきり残っていた。
生きた心地がしない中、先を進む。

またも川の激流で道路がえぐられていた。

ひたすら先を進む。

学校跡地手前の道も川の水量でえぐられていた。

そしてようやく、奔別沢分校跡地に到達した。
学校跡地の決め手になったのは
①空中写真で校舎の屋根が写っていたこと
②奔別沢集落は南北に細長いので、子どもの通学を考えたら集落の中央に校舎を建てるのが妥当であること である。

学校跡地の対面には神社も建立されていたので神社跡も行ってみる。

神社跡は雪で何も見えなかった。

奔別沢分校跡地全景。
離村から50年以上の月日が流れ、集落の面影は消えようとしていた。
※(注1) 在籍児童数は「10年の歩み 1958.7 三笠市立奔別小学校」の奥付に記載されていた。
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コメントの投稿
今回もお世話になりました
奔別沢分校跡地が特定出来なかったのは残念ですが、熊出没では仕方がありませんよね~(^-^;)
でもあの沢へ侵入し調査が出来ただけでも幸いです。
それにしても最後に記載された「奥付」の内容にぐっときました。
>まだ二十年、三十年。いや五十年も百年もつづくであろう奔別小学校の将来においてこのささやかな冊子が学校の歴史のよい資料として役立つことを信じて、私共の仕事を終ります。
残念ながらこれが発行された15年後に、日本一のモンモス校だった奔別小学校は校史に幕を下ろしたのですから。
でもあの沢へ侵入し調査が出来ただけでも幸いです。
それにしても最後に記載された「奥付」の内容にぐっときました。
>まだ二十年、三十年。いや五十年も百年もつづくであろう奔別小学校の将来においてこのささやかな冊子が学校の歴史のよい資料として役立つことを信じて、私共の仕事を終ります。
残念ながらこれが発行された15年後に、日本一のモンモス校だった奔別小学校は校史に幕を下ろしたのですから。
RE:今回もお世話になりました
piroさま
此方こそ、色々とお世話になり有難うございました。
奥付の文面を見たとき、何ともいえぬ気持ちとなりました。その頃の奔別の賑わいが、文面からも読み取ることができます。
これから少しずつ、レポートをアップしていきます。
此方こそ、色々とお世話になり有難うございました。
奥付の文面を見たとき、何ともいえぬ気持ちとなりました。その頃の奔別の賑わいが、文面からも読み取ることができます。
これから少しずつ、レポートをアップしていきます。
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