三石町二川

三石町(現 新ひだか町)二川(平成23年10月22日・23日、平成29年5月28日探訪)

延出小学校の分校があった集落である。

延出小学校 二川分校は昭和13年に開校した。
二川地域は当時、開墾者や木炭業者40戸ほどの集落を形成していた。
それまでは延出小学校まで通学していたが、当地の事業家 坂東信之・中谷清光らが出資して昭和13年2月15日、字福畑280番地に 小林清二准訓導を主任として開校した。

開講当初の児童は33名(男子21名 女子12名)、単級教育で行われていた。
しかし、昭和18年の時点で児童数12名(男子4名 女子8名)に減少してしまう。
昭和22年4月1日 分校に昇格するも昭和30年代に入ると、児童数は一桁となり昭和38年、児童数2名(男子1名 女子1名)となり、同年7月31日をもって廃校となった。
二川のへき地等級は3級、現在集落の人口はゼロ。
集落付近には「二川大橋」「二川林道」の名前のみが残っている。

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この先に二川集落があった。


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旧版地形図には、この周辺にも人家があった。
今は植林されており痕跡は全くない。

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児童はこの川を渡って、学校に通学していた。
対岸に校舎があったものと思われる。
渡る術がないので、一旦引き返す。

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「二川大橋」
この傍に「二川林道」という林道もあった。

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二川大橋を渡り、対岸の学校跡付近。
「付近」と書いたのは、学校跡だと断定することが出来なかった。
校門もあったようだが、自然に還っており痕跡を見つけることが出来なかった。

本校であった延出小学校も平成23年1月30日 閉校式が行われ115年の歴史に幕を下ろした。
閉校当時の児童19名、卒業生の総数は3093名である。

時は流れ平成29年5月、HEYANEKO氏らと一緒に訪ねた。
HEYANEKO氏が持ってきた「三石局郵便区全図 日高国三石郡」によれば「二川」の集落名、「文マーク」(二川分校)の名前が書かれているが、もうひとつ「三百町」という地名が書かれている。

分校跡を探すも、なかなか見つからず諦めかけたその時ラオウ氏が地元の古老に伺った。
その結果、分校の卒業生であることがわかりお願いして学校跡地を教えていただくことができた。

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二川大橋。
学校は、この橋を渡った先にあった。

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学校跡地。
古老の話では「『三百町』は土地の広さから来ている。三百町に入植した人はみな、炭焼きで暮らしていた。」
「かつては学校前のグラウンドで、総出で運動会が行われた。分校主任の先生は子供が10人もいた…。」

ここで二川地区の集落が伺える記事を紹介する。

老教師の愛に明るく 文化に取残された二川分校 俸給割いてラジオ 勉強に不自由と学用品

「【三石】戦後民主主義が叫ばれてから早くも10年という長い年月が流れ去ろうとしており、その間小学校では地域社会と結びついた社会科、視聴覚教育、辺地校教育の推進などが中央で大きく取り上げられてきたが、文化の恩恵から取り残されている山奥の分校はこれら新しい地帯の"真空地帯″となっているのが実情だ。しかしこれら分校では一人の教師を囲んで児童たちが毎日見たこともないところの話を聞きながら学び、都会では見られぬ師弟愛に包まれた教育が行われている。美しく彩られた秋の一日、一老教師とそれをとりまく"18の瞳″のいる日高で二番目に児童数の少ない三石郡三石町延出小学校二川分校を訪れてみた。
ここは三石町から三石川に沿ってさかのぼること4里、ことに平らな一本道をすぎ山際にさしかかってからの1里半は林道と山道の中間を縫うような悪路でしかも白い大理石の露頭がいまにも落ちそうになってみえるところもあり河原におりてまた登るという交通不便なところでそれにまた三方が山、前は三石川とその支流にさえぎられているという全く孤立した電気のない16戸の二川部落である。
同部落には早い人は昭和10年ころから三石木材(社長坂東信之氏)のきこりとして入り、16戸のうちには田畑を耕作する人もあり、現在3戸で田○反(注1)、畑2町が平らな土地に耕作されそのほかの人ほとんどが炭焼きに従事している。これらの人々は造材で忙しくなると狩り出されるので田畑を耕作しているとはいえ形ばかりだ。
分校はこの三石木材と三井物産の共同経営で部落の子供たちの教育のため昭和16年に設立(注2)、その後27年延出小学校の分校となった。当時は30名前後の児童がいたが戦後三井が同地から引き上げ、さらに造材、製炭の生産が少なくなるにつれて山を出ていったので最近では10名を数えることがまれで現在6年生の池田恵子さん(11)を最上級生に3年生2名、1年生4名の9名しかいない。来年は恵子さんが卒業して1年生が3名入学するので11名になるという。主任教諭の矢部知治氏(58)は20年満州から引揚げてきた人でその後三石中学で8年間教職につき昨年4月分校に赴任したが"一時はどうなることかと思いあぐんだが、それも来てみて落着くようになってからは教えがいがあることがわかり全力をあげていますよ″と目を輝かせながら語るのだった。
分校の授業は日が昇れば仕事に出かけ、日が沈むと帰るという部落の人々の原始的生活が反映して朝7時から始まる。それから15分間ラジオ体操をやる、といってもラジオに合せてではない。それから本格的な授業に入るのだが、児童が教室に入っても20坪の教室が広く感じるほどだ。授業が早く始まるので1年生などは10時ごろで帰り、お昼にはみんないなくなってしまう。だからお弁当を持ってくる子供はいない。最も持ってくるようにいっても副食物に困る家庭ばかりなので持ってくるのは無理な話だ。部落の人が買い物をするときは三石の市街地まで出て行くのだが、帰りに積んできてもらう三石木材のトラックは毎日出ない。時には1週間も10日も通わないこともある。そのため副食物や必要品は1ヶ月くらいのものを買わなければならない。そのため学校に弁当を持たせてやるだけの余裕がないのだ。児童の学力は、算数、国語では大きな小学校に負けないが実験を伴う理科は劣るという。事実算数は1年生で2ケタの加減教えているが理科では電池の実験が精いっぱい。また電気がないためラジオ教育も幻灯による視聴覚教育もできない。しかし矢部先生はせめてラジオだけでもと10月初旬にポータブルラジオを1台自費で購入。山へ運んだがアンテナがないため昼間は聴くことができなかったが、近くこのアンテナ線が運ばれてくるのでラジオが聴けるようになると子供たちは大喜びだ。
ここの子供たちは文明の産物をほとんど知らない。最近水揚げポンプが先生の住宅に取り付けられたが、これを見た子供は9人のうち5人、ラジオを聴いたことのないのが5人、電灯を見たのが3人と全く文化からとり残された環境の中にいる。またバナナを食べたことのある子供は1人もいなかったが、これは矢部先生が札幌から取り寄せ食べさせてやり、さらに教科書に出ている蓮華の花を知らないというので昨年これを植え、今年になって花が3つ咲いたのでようやく知ることができたというエピソードもある。ヘリコプターは去る7月の水害のとき水死者を発見したさい河原に降りたので見ることができた。
こうして分校で毎日先生がいろいろ新しい知識を身につけた児童も卒業すると山道を2里下って延出中学へ通わねばならない。ところが分校の前の川には危ない丸木橋が1本あるだけである。少しの雨でも降り増水が激しくなると途中川原にある道はすぐ水の下になってしまう。本年卒業した2人のうち1人は今のところ自転車で通っているが、もう1人は通称三百町の沢という分校からさらに1キロおくもあってしかも自転車がないので自転車の借りれる時しか通学できず1月に2、3日の出席率だという。
分校に通学してきている児童の家庭のほとんどが炭焼きで生計を立てているため貧しく児童たちはお菓子もろくに食べられず、ノートなども満足に持っていない。こうした児童のため矢部先生は山を下りるたびに自費でキャラメル、チョコレートなどのお菓子からノート類まで買ってきて与えている。児童たちにとって先生が山から帰ってくるのが大きな楽しみとなっている。貧しいとはいえ児童の中でカサを持っているのが1軒、あとの児童は近いところはぬれて通学、遠くの沢になると子供は休んでしまうという状態だ。
訪れた日の午後から折り悪く雨が降ってきた。これが山あければ楽しい学校の1本のカサでどれだけの子供たちがぬれないでしかも休まないで学校へくることだろうか、このようなところはまだまだ北海道のいたるところにある。決して日高の1分校の話ではない。」

次に、閉校時の記事を掲載する。

近く売払い処分に 二川分校25年の歴史閉ず

「【三石】去る7月31日付で廃校となった三石町立延出小学校二川分校の校舎が来月3日に売払い処分されることになった。同分校は三石市街から13.5キロの山奥にある。13年に延出小学校の分校として開校、多い時には20人前後の児童が在席していた。
しかし二川部落は開拓地だけに貧困世帯が多く、年々同地を去るものが多くなり昨年は矢部知治教諭のほか6年の1年の児童たった2人となってしまった。町としてもわずか2人の児童だけで年間多額の経費を要することや、子供の将来のためにと、7月31日をもって廃校とした。
このため2人の児童は部落から4キロ離れた延出本校に通学している。
校舎の売払い入札は、12月3日午前10時から町役場会議室で行われるが、約25年間の長い年月に亘ってへき地学校として親しみのあった校舎が、二川部落から姿を消すことになったもの。」

注1 ○は印刷不鮮明のため不明である。
注2 『三石町史』によれば昭和13年開校である。

参考文献

郵政省1952「三石局郵便区全図 日高国三石郡」郵政省
北海道新聞1955「老教師の愛に明るく 文化に取残された二川分校 俸給割いてラジオ 勉強に不自由と学用品」北海道新聞胆振日高版昭和30年10月27日
日高報知新聞1963「近く売払い処分に 二川分校25年の歴史閉ず」日高報知新聞昭和38年11月27日
三石町史編纂委員会1971『三石町史』三石町
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平取町仁世宇

平取町仁世宇(平成23年10月22日・平成29年5月29日探訪)

平取町仁世宇は鉱山で栄えた集落であった。

大正初期 後藤彦三郎の手によって日本製錬株式会社 日東鉱山(クロームの採掘)が開坑した。

大正6年に試掘が始まり、大正8年に大鉱脈が発見され飛躍的に事業が拡大していった。

学校はその前年度である大正5年5月18日 池売尋常小学校付属仁世鵜特別教授場として開校した。「池売尋常小学校」は元々「振内小学校」の前身であった。

昭和4年8月12日 池売尋常小学校の付属から、岩知志尋常小学校付属に変更になる。
大東亜戦争開戦前後(昭和16年)になると、軍需品として脚光を浴びてきたことから仁世宇地区もたくさんの人が暮らしていた。

「語りつぐ平取」(2002年3月31日刊)によると1棟4戸の長屋が120戸くらいあり、鉱山関係の建物のほかに木工場や映画館も建てられ、電灯がいち早く普及していた。
当時、平取村はまだ3分の1くらいしか電灯が普及していなかった頃であるので、それだけの人びとが暮らしていたことが伺える。

昭和18年 岩知志国民学校の付属から独立し、昭和22年 仁世鵜小学校になった。

クローム鉱石生産量のピークは昭和26年度の3,464トンであった。この年以降、朝鮮戦争の終結や輸入鉱石の増加もあって生産量は半減していった。

昭和30年代に入ると鉱床が貧床のため、一層生産量は減少し昭和34年2月14日 鉱員53名の人員整理を行なったが経営状態は芳しくなく、昭和35年に閉山した。

学校も例外なく、生徒数の減少により鉱山の閉山前年度(昭和34年)時点で小学校2学級23名 中学校1学級8名となり、町内で一番小さい小中併置校であった。

鉱山が閉山になると既存の農家しかなく、農家の離農による過疎化により昭和47年3月 振内小学校に統合され廃校になった。

仁世宇は現在、数世帯が暮らす過疎集落地域である。

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仁世宇地区に今も残る建物。右側は集会所であるが、左の建物は個人商店と思われる。

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仁世宇川を渡り、いよいよ学校跡地へ行く。

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仁世宇林道。
この林道を約8キロ進むと、仁世鵜小中学校跡地がある。

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仁世宇林道起点の標識。

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仁世宇林道を進みはじめて6キロほど進むと、右手の小高いところに廃屋があった。
ここで暮らしていた人の家だろう。
旧版地形図を見ると川沿いに所々人家があったが、その痕跡も殆ど見受けられなかった。

ただ、この廃屋から手前2キロ地点には今も酪農家の家がある。ここに開拓に入った方の子孫が暮らしているだろうと推察される。

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廃屋より奥の風景。

探訪当時「学舎の風景」 piro氏と訪れたが残り1キロ地点で、ある出来事があった。

piro氏「あと1キロ進むと、学校跡地です」
ナルセ「もうすぐですね。楽しみですね」

こんな話しを交わし、右カーブを曲がった瞬間…。

piro氏「ナルセさん、道路に黒い物体が…」
ナルセ「あれ、子グマではないですか?」

すると林の中から親グマがのそのそっと現れた。

咄嗟にバックでターンし、その場は離れた。

この探訪直前、道内ではクマによる被害報道が相次ぎ、なかにはクルマにも襲い掛かったクマもいたくらいである。

一気に戻り、比較的大きな振内集落に出たときは安堵した。
探索をはじめて10年、自衛隊での演習を何度も経験しているとはいえ、クマとの遭遇は今回が初めてであった。

仁世鵜小中学校跡地、リベンジはいつになるだろうか。
尚、行ってきた方の話しによると、コンクリートの外壁が残されているとのことである。


時は流れ、平成29年5月 HEYANEKO氏らの合同調査で再訪した。

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右手の小高いところにあった家屋(廃屋)は倒壊していた。

この先で母子熊に遭遇したが、今回はいなかったので安心して進む。

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A.D氏の「ありましたよ」という声を聞き、足を運ぶと校舎が姿を見せた。

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コンクリートの外壁や煙突が残り、往時を偲ばせてくれる。

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傍には教員住宅もある。

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便槽。
ここまで完璧な姿で残っている便槽は初めて見る。

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近くには浴槽も残っていた。

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持ってきた手鎌で笹を刈り、正面玄関から校舎を写す。

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学校手前の耕作放棄地(田圃跡)を望む。
過疎化が進み校舎は閉校したが、外壁が残り往時を偲ぶことができた。

閉校当時の新聞記事を転載する。

姿消す仁世鵜小中学校 本年度限りで廃校 過疎に勝てず55年間の歴史に幕
「【平取】仁世鵜小中学校(吉田達男校長)は、過疎化の波に勝てず本年度限りで廃校、22日には卒業式と閉校式を同時に行ない、55年間の歴史を閉じる。
同校は大正6年5月15日、池売尋常小学校付属仁世鵜特別教授場として開設、昭和17年2月、仁世鵜国民学校として独立、24年6月、振内中仁世鵜分校が併設され、29年11月、仁世鵜小中学校となった。山のなかのへき地3級校で現在児童数11人、生徒数3人の小、中とも単級複式校。教職員は校長以下4人で、児童、生徒3・5人に先生1人というぜいたくな学校。小学校は154人、中学校は64人の卒業生を送り出している。
 農村地帯で、戦時中から戦後にかけ一時は20数戸あったが、30年頃から離農が相次ぎ、今はわずか4戸、うち3戸が松沢姓の兄弟で、児童、生徒のうち10人が松沢姓のいとこ同士という。
 同校廃止の計画は、町内の中学校を平取、振内、貫気別の3校に集約するということで、まず44年に中学校を振内へ統合する話が出た。ところが中学生を振内へ行かせるのであれば、小学校も振内小へ統合して児童、生徒を一緒に輸送してはどうかという意見が教育委員会から持ち上がった。
 その後、同教委と父母との会合を重ねてやっとことし1月下旬の教育委員会で廃校を決め、10日から開かれている定例町議会に同校廃校のための学校設置条例の改正が提案されている。
 新学期の同地域の小、中学生は、先生の子供を除くと児童9人、生徒4人の13人。大規模校への吸収による廃校は時代の流れとはいうものの、心のよりどころだった学校を失う地域の人たちの心は複雑。それでも子供たちは『仁世鵜の学校がなくなるのは寂しい』と述べながらも『振内小へ行ったら、新しい友だちをつくって、一生懸命勉強しよう』とひそやかに期待感を抱いている。
 振内への通学は、町がハイヤー会社と年間契約して自動車輸送するが、具体的方法は町議会が終わってから話し合って決められる。」

参考文献

北海道新聞1972「姿消す仁世鵜小中学校 本年度限りで廃校 過疎に勝てず55年間の歴史に幕」北海道新聞日高版 昭和47年3月12日
平取町2002『語りつぐ平取』平取町

初山別村明里御料

初山別村明里御料(平成29年4月18日及び25日探訪)

初山別村明里御料は戦後開拓集落であった。

明里御料は以前『学舎の風景』合同探訪で訪ねようとしたが、生憎この時は見つけられなかった。
それから数年後、初山別村教育委員会とのやり取りや文献調査を踏まえ、学校跡地を特定することができた。

『初山別村史』を見ても明里御料に関する記述も少ない(注1)が、学級数・児童数の推移や閉校当時の報道記事を転載する。

開校 昭和35年12月5日
閉校 昭和43年4月26日

学級数・児童数の推移(『北海道教育関係職員録』昭和36年度~42年度より)

昭和36年度 1学級12名
昭和37年度 1学級12名
昭和38年度 1学級 6名
昭和39年度 1学級10名
昭和40年度 1学級 7名
昭和41年度 2学級 4名
昭和42年度 1学級 2名

7年余の歴史に幕 豊岬小学校明里分校 1日から本校に統合
「【初山別】豊岬小明里分校は3月末で廃校となり、4月1日から本校に統合される。
 明里分校は豊岬小本校から9.5キロ、国鉄豊岬駅から11キロも離れた、通称‘御料開拓地`にある辺地校。この地区の児童を教育するため、35年11月に校舎が建設され、同12月に正式認可となった。当時は児童数も12人を数えていたが、年々離農や農家の移転があいつぎ、現在では校下にある民家はわずか1軒よりなく、児童もこの1軒の農家から2人が通学しているだけ。分校の先生も同家に下宿しなければならないという状態。
 村教委は、いままで明里分校を含めた村内4校について統合計画を検討していたが、こうした現状から、まず明里分校の廃校を取りあげ、関係者の意向を打診していたが、こんご同分校の児童数がふえる見通しが全くないおとなどから、年度替わりをひかえ、急きょ廃校を決めたもの。わずか7年4ヵ月で同分校の歴史を閉じることになった。」

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日本最北のりんご園である「木下りんご園」
この先が明里御料である。
この時は、あくまで「下見」で訪ねてきた。

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一本の大きな松の先からダートになる。

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道中の風景。
所々平坦な土地があるが、すべて植林されているか自然に還っている。

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橋が崩れかかっている。おっかなびっくり渡りながら進む。

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道はこの奥も続いていたが、川を渡る術が見当たらない。
諦めて引き返す。

と、その時分校跡を示す記念碑が建立されていることに気がついた。
下見の時点で、到達してしまった。

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1週間後の4月25日 ラオウ氏とA.D.1600氏と会い、すっかり恐縮しながらの探索となった。
こちらが豊岬小中学校(本校)である。

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小学校は平成26年3月、中学校は平成21年3月にそれぞれ閉校した。

明里分校までの道中は一緒なので割愛させていただく。

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道中の橋を渡り、分校跡地へ到達した。
ネットでも明里分校の画像は出てこないので、恐らく初公開である。

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傍には朽ちた昔の木碑が倒れていた。
東山小学校の木碑と同型である。

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学校跡地。
分校にしても小さく、1教室と洗面所、トイレ程度しかない。
学校の基礎を改めて見て、お互い「分校でもここまで小さいのはあまり見かけない」と驚いていた。

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天気も良かったので周辺を散策した。

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学校跡地より崩れかけた橋を眺める。
へき地等級4級。
学校跡地の記念碑と基礎が唯一の集落の面影であった。

今回の調査では特に初山別村教育委員会様に大変お世話になりました。厚くお礼申し上げます。

(注1)『初山別村史』には「なお本校には昭和35年11月1日、南明里奥地住民の要望により豊岬小学校明里分校が設置され、同年12月5日から授業が開始されたが、住民の挙家流出により児童の現象をみ、昭和43年4月26日分校開設8ヵ年の歴史を閉じ本校に統合された。」と書かれている。

参考文献

北海道新聞1968「7年余の歴史に幕 豊岬小明里分校 1日から本校に統合」北海道新聞留萌・宗谷 昭和45年3月26日
北海道教職員組合1961~1967『北海道教育関係職員録』北海教育評論社
初山別村史編集室1972『初山別村史』初山別村役場

小平町花岡

小平町花岡(平成28年7月16日・平成29年4月19日及び25日探訪)

小平町花岡は農村集落である。

花岡は元々「鬼泊」(オニトマリ)と称されていた。
名前の由来はアイヌ語で「大きな(親の)澗」を意味し、幕末に番屋が置かれ、船澗があったとされている。

明治28年 栖原番屋付近に定住した中原将次(鳥取県人)にはじまり谷口農場、花田農場牧場地内に炭焼きや小作者の入植が現れ始めた。
この頃の子供らは小平蘂第一教育所(現 小平小学校)へ通学していたが山道を歩き、冬季は長期欠席せざるを得ない状態であった。
このため、区長であった中原将次を中心に協議した結果、明治42年高谷市次郎を教師として私塾を開いた。

学校の沿革は次のとおりである。

明治42年 小番新八の納屋を借用して私塾開校
明治43年 花田伝七牧場の事務所を譲受け、移築して校舎とする。
明治44年 小平蘂第一教育所付属恩寧泊特別教授譲渡して開校(5月15日)
大正7年  教室・屋内運動場・住宅兼職員室の改築
大正13年 校舎の模様替え 運動場を教室に、旧教室を職員室に変更
昭和9年  鬼泊尋常小学校に変更(6月1日)
昭和16年 鬼泊国民学校に変更(4月1日)
昭和22年 鬼泊小学校に変更(4月1日)
昭和23年 花岡小学校に変更
昭和35年 花岡小学校閉校(8月31日)

花岡小学校の閉校は、小平小学校の新築に併せて閉校となった。
閉校後、花岡の子供たちは学校前にあった花岡乗降場より汽車で小平小学校へ通学していた。

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平成28年7月、初めて花岡へ足を運んだ。

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橋の名前は「花岡橋」
この先へ足を運ぶ。

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先へ進むと崩れかけた家屋がある。

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傍に、笹に埋もれかけた建物が見えた。
笹を掻き分けて進む。

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『花岡農家担い手研修所 地域農政整備事業』という看板が掲げられているが、使われなくなって久しい。

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花岡小学校跡地に建てたのは分かったが、それにしても笹薮が酷く全容が掴めない。
諦めて周囲を散策する。

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『小平百話-記憶の中の物語-』に掲載されている昭和20年前後の花岡地区の住宅地図を見ると、Sさんの家のようである。

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牧草畑となっているが、この奥にも1軒家があった。

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学校向かいの家を遠望する。橋を渡った右隣に花岡乗降場があった。

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集落の奥より学校方面を望む。

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年が明けて平成29年4月19日に再訪した。
今回は建物の全容がよく分かる。

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学校横にある建物は半壊状態であった。

今回は、学校横にあった神社(鬼泊神社)を探すことにする。

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神社の基礎を見つけた。
『小平百話-記憶の中の物語-』では「鬼泊神社」と「御眞影奉置所」(奉安殿)と書かれている。
御真影奉置所の基礎と思われる?

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傍に、手水舎があった。

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折角なので溜まっていた土を取り除き、手水舎を復活させた。

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1週間後の4月25日、ラオウ氏とA.D.1600氏と共に再び足を運んだ。
学校跡と神社跡をそれぞれ案内したが、A.D.1600氏より花岡乗降場周辺をガイドして頂いた。

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学校前に置かれていた枕木。
花岡乗降場のものかは分からない。

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国鉄羽幌線路盤跡。この先は小平町大椴へ続いている。

学校も無くなり、居住者もいなくなったが通い作で田畑が維持管理されていた。
ただ、神社は歴史に埋もれようとしていた。

参考文献
小平町史編集室1976『小平町史』小平町役場
留萌教育研究所1981『学海悠悠-留萌の学校-』留萌教育研究所
鈴木 トミヱ2000『小平百話-記憶の中の物語-』小平町開基120年記念事業実行委員会

増毛町信砂御料 S氏の証言



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信砂御料集落で印象深い「苗字が描かれたサイロ」(平成21年5月3日撮影)と、現在の「苗字が描かれたサイロ」

私は昭和31(1956)年に生まれた。信砂御料に戦後入植した人の多くは大阪出身であった。
自宅は元々、土壁の古い家であった。昭和29(1954)年の洞爺丸台風のときに家が壊れそうになったので、自宅を新築した。

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信砂御料集落入口の「御料橋」

食料品は「三栄食品」がバスで行商に来ていた。大抵は行商で済ませていたが、行商で買えないものは留萌か増毛まで出た。
昔は農協(増毛農協)でツケで買うことができたので、ツケで買ってから一括清算した。

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電柱に残る「信砂御料」の名前

小5(昭和42 1967)年に学校給食が始まり、家から牛乳を出せといわれ牛乳をバイクに乗せて学校まで運搬した。
この頃に歩古丹小学校に一泊したことがある。体育館のような部屋(教室)にゴザを敷いて一泊した。

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信砂御料小中学校跡

小6(昭和43 1968)になると父にクルマのハンドル操作を覚えさせられた。
中1(昭和44 1969)には既にクルマを運転していた。
お祭りには、集落の人々をトラックの荷台に載せて運転した。お祭りは神社で子供や大人の相撲大会が行われ、夜は学校で映画を観た。運動会になると集落総出で大人も子供も入り混じっていた。

学校は複複式だったので、15分くらい勉強したらあとは自習だった。
学校で勉強したことよりも家で働いていたときのほうが思い出がある。

例えば、水道を山の貯水池から引っ張ってパイプで繋げていく作業や敷地内に張り巡らされている電牧(電気牧柵)の草刈作業などをやった。
家では牛を21頭飼っていたが、そのうち8頭くらい家族分担で乳絞りをやった。ランプのほや磨きやガス磨きは日常であった。
牛のほかに畑作(イモ)をつくっていたが後になって、信砂に水田を借りてコメもつくっていた。

向かいの家(Sさん)にマージャンを教えてもらったことが切っ掛けで始めたが、集落じゅうの人から「マージャンを教えてくれ」と言われ、集落に広めた。

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学校裏にあったスキー場跡

信砂御料は雪が非常に多かった。自宅は、学校よりも数キロ奥にあった。
学校までは道路の除雪がされていたが、学校より奥はされていなかったので毎日スキーで通学した。
雪が多いので、屋根の雪下ろしも日課だった。屋根の軒を蹴ると雪が落ちていくが、雪と一緒に落ちたこともあった。
しかし「落ちたって死なない」と思っていたので屋根でも飛んだり走ったりした。玄関は雪で埋もれていたので、窓から出入りした。

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スキー場頂上付近より信砂方面を望む

中学2年(昭和45 1970)年に留萌へ転出した。信砂御料で条件のいいところに入植した人は良かったが、条件の悪いところに入植して離農していった人は大変だったかもしれない…。

写真 平成21年5月3日撮影以外の写真は平成29年3月14日撮影
聞き取り 平成28年8月28日 旭川市内
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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