浜頓別町上茂宇津内

浜頓別町上茂宇津内(カミモウツナイ)(平成23年10月9日探訪)

茂宇津内はモウツナイ川流域の集落であるが、その奥に上茂宇津内集落があった。
近くの宇津内集落も、平成17年度で5戸しかない限界集落であるが、上茂宇津内集落は完全な廃村状態となっている。

上茂宇津内は戦後開拓によって形成された集落である。
浜頓別町の入植者台帳によれば、昭和21年から34年までに町内全体で168戸が入植した。そのうち上茂宇津内は昭和21年5月2日 4戸の入植者を皮切りに昭和29年までに13世帯61名が生活していた。
分校ができたのは昭和24年2月20日 下頓別小学校上茂宇津内分校(へき地等級5級・町史には「上茂宇津内分教場(下小所属)」と記載)として開校した。
しかし昭和35年12月 全戸離農となり昭和36年3月31日付で閉校となった。

浜頓別町にも問い合わせを試みたが「上茂宇津内分校」の資料が殆ど無い状態なので、離農の経緯もまったく分からなかった。
現地調査した際、農耕地として不適であることや農作物の不作が考えられるが、いずれも推測の域なのでこれ以上は何とも申し上げることはできない。

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集落の入口付近に残る離農した農家跡。

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やがて「高砂橋」を渡る。

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集落の痕跡が見当たらない。

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造材の、木の切り出し場と化していた。

近くで作業していたお父さんに声をかけてみる。
「この辺に、昔、上茂宇津内という学校があったの知りませんか?」と訊ねるが「名前は聞いたことあるが…どこにあったのかは分からない」と答えた。

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畑も、サイロも、家屋の残骸すら無くなっていた。

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地形図と見比べても、どの辺りにあったのかは分からなかった。
ただ一つ云えるのは、狭隘なこの地にも人びとの営みがあった。


追記(平成29年1月31日)

『日刊宗谷』「宗谷郡部版」に上茂宇津内の集団離農記事が掲載されていたので紹介する。

開拓地の努力も無なしく 全員が集団離農 上茂宇津内部落 道路、橋梁も荒れ放題
 「【浜頓別】熊笹と荒土の開拓地に入植営々として開拓の鍬を打ちおろし耕土を開いたものの地理的条件のためこのまま営農を続けても経営が成り立たないと近く集団移転の開拓部落がある。
 この部落は町上茂宇開拓地で気候、地質は町内開拓地でも両行の部落だが文字通りの僻地、道路橋架は荒れ放題、このため農産物の運搬は勿論、部落民の歩行さえやっとという状態例年わずかばかりの予算で改修工事は行われたもののわずか9戸程度の部落のためこんごこれらの予算は全く望み薄。
 このためこのまま営農を続けていても万足な経営に立ち直ることは不可能と町及び開拓農協、宗谷支庁が移転対策整備地区に踏切るためこの程同部落農家個々と協議の結果、全員が移転、離農することになった。
 この整備地区に入れば約1戸当り15万円程度の移転費が支給されるわけで既に2戸はポン仁達内地区に入植決定。明春3月末までに全員離農するがこの集団移転に伴い、同地の上茂宇津小学校も廃校となる。」(日刊宗谷宗谷郡部版 昭和35(1960)年11月11日)


参考文献
日刊宗谷1960「開拓地の努力も無なしく 全員が集団離農 上茂宇津内部落 道路、橋梁も荒れ放題」『日刊宗谷宗谷郡部版』11月11日
浜頓別町史編集委員会1995『浜頓別町史』浜頓別町

大樹町館山

大樹町館山(平成28年5月30日探訪)

大樹町館山は農山村集落である。

集落名の由来は宮城県館矢間村からの移民が多かったことから「館山契約会」という部落会を作ったが、やがて故郷館山の名前を冠し、集落名とした。
明治43年 植民地の区画割をしたことがきっかけとなり、翌明治44年4月蓬田忠六を団体長とする移民と、加藤亀次郎を団体長とする移民が入植した。草分けの人々は蓬田・加藤のほか佐藤宇太郎、佐藤政治、加藤薫、今野善治、齋藤源三郎であった。
入植者はその後も現れ、大正7年頃は24戸を数えていた。

「館山契約会」は24戸を3部に分割して諸般の行事や総会、作付けや相場などを相談しあい、営農に励んだ。

学校は永らく、明道小学校や石坂小学校に通わせていた。
学校の沿革は、以下の通りである。

昭和20年6月1日   石坂国民学校傘骨分校として開校(原文ママ)
昭和23年3月31日  館山小学校として独立
昭和23年10月13日 校舎改築移転
昭和35年8月20日  校舎新築落成
昭和43年3月31日  大樹小学校に統合 

※離農が顕著に現れ始めた年代は『大樹町史』に書かれていなかったが、昭和30年代後半から40年代初頭にかけてと思われる。

昭和43年閉校直前の戸数 9戸 児童数 12名であった。

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国道236号線 大樹町と広尾町の境目あたりを西へ進む。

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道路左手に館山小学校が見えた。
現在は、私有地の中にある。

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学校を挟んで斜め向かいに、神社と石碑が見える。
フキをなぎ倒して進む。

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拝殿は朽ちつつも残っている。

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石碑は馬頭観音である。

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学校より奥の風景。
居住者はいないが、通い作で今も畑が維持されていた。

参考文献

大樹町1969『大樹町史』大樹町

遠別町大成

遠別町大成(平成25年6月8日・平成28年10月31日探訪)

遠別町大成は、道道名寄遠別線にある集落である。

手前の東野地区から9キロ進むと大成である。

明治45年 岐阜県人 川尻甚助、新潟県人 小野塚清吉の入地が最初であった。
それに引き続き数戸の移民を迎えた。

そのうちの千葉栄之助、戸田千代吉等が教育の必要性を訴え、下原野29号 谷川理津蔵方の寄寓者である森川松寿氏を教師として、戸田氏の納屋を借り受け5、6人の子弟に読み書きを教えたのが最初であった。

大正5年5月8日 中央小学校所属上遠別特別教授場が公設された。
これが大成小学校の始まりであった。

開校当時の通学区域は、遠別川をはさみ南北に長く延長は3里2町(約12キロ)に達していた。
中には3、4箇所の渡船を経て通学したり、学校附近の家や学校内に寄宿した児童もいた。

大正15年4月 上遠別第二特別教授場(後の正修小学校)が認可されてからは12線以南が分割された。

昭和8年9月12日 上遠別尋常小学校に昇格。

昭和16年4月1日 上遠別国民学校と改称。

昭和22年 遠別村立大成小学校となった。

大成は通称「上ウエンベツ」と呼ばれ、遠別川を挟んだ両側は支脈が囲み、鋏状地帯である。

昭和7年頃までは渡河や渡船で過ごしていたが、同年より2年後の昭和9年までに上エンベツ1線・2線・4線・13線に吊橋が架設され、その数年後には雪見橋・風月橋・錦橋・流星橋が木製ながら架橋された。
これらは現在、コンクリート製に代わっている。

稲作、畑作のほか森林資源が豊富であることから冬山造材を受け持ち、昭和初期から20年代までは馬橇により遠別駅の土場に集積されていた。

また、春になれば山越えをして隣村のフウレンベツ(現 初山別村豊岬)へニシン漁場へ出稼ぎに行った。

昭和14年 字名改正により「大成」に変更された。

由来は「大正時代の移民にして大望抱き一意専心開拓事業に孜々営々努力せられつつあるに出づ」である。

昭和30年には23戸 164人の人々が暮らしていた。

昭和32年8月 開校40周年に伴い、新校舎が落成。

昭和41年 大成開基60周年 小学校開校50周年 中学校開校10周年記念行事が盛大に挙行された。

しかし、この地も過疎化は進行していく。

昭和45年から始まった稲作転換事業は過疎化に拍車をかけた。
既存の水田はすべて畑作に変わった。

町教委の宇野 治氏はこう話す。
「…遠別川沿いの僅かな平地を開拓したが、(遠別町)市街地から離れているのでみんな出て行ってしまった。今通ってきた道路沿いは、すべて田畑だった…。」

昭和56年4月 大成小学校 廃校。中央小学校大成分校になる。

そして翌年 昭和57年3月31日 中央小学校大成分校は廃校になった。

卒業生総数 258名であった。

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遠別町大成にあるゲート。
この先に大成小中学校、そして正修集落があった。
探訪当時、まだゲートは開いていなかったが留萌建設管理部 遠別出張所に事情を説明し、許可を得てゲートを開けた。

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学校前の大成集落。
現在、1世帯しか住まわれていない過疎集落である。
学校前も人家があり、田畑が広がっていたがすべて自然に還ってしまっている。

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大成小学校の校門と、記念碑が見えた。

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ササを刈り取り、記念碑が姿を現した。

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記念碑の背面。
木製であるため、所々傷んできている。

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記念碑の背後には校舎があった。

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雪の重みで木造部分は既に倒壊していた。
外壁だけが残っていた。

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校舎の姿はいつまで保ち続けていたのだろうか。
瓦礫と判っていても、内部を確認する。

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足元が危ない。
慎重に一歩一歩、歩く。

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この先には体育館があったが、既に倒壊している。

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戸棚が辛うじて残っていた。

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学校前に残されていた回旋塔の支柱。
子供たちがここで学び、遊んでいた証である。

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学校前より正修方面を望む。
正修はここよりまだ奥である。

平成28年10月31日 遠別町教育委員会の職員とともに上遠別方面を調査した。
天候は大雪。道道688号沿は雪に覆われ、クルマが雪で嵌って動けなくなっている姿を横目に進む。

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学校手前に神社マークがあったのでクルマを止め、それらしき敷地と記念碑らしきものを見つける。

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記念碑を見つけた。
大成地区開基60周年記念碑(昭和41年9月建立)である。

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石碑の下部に、明治期に大成へ入植した人々の名前が刻まれている。

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記念碑の傍には地神さまの碑もある。

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記念碑は昭和29年に遠別町農協青年(農協青年部と思われる)大成支部が建立した。

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寄進したのは明治期に大成に入植した小野塚清吉氏である。

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神社の拝殿跡と思われる階段もあった。

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何かの台座(狛犬?)も残っている。

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手がかじかみ、ぶれてしまったが大成小中学校校舎である。

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校舎横の回旋塔(遊具)の先に、大成地区の開拓記念碑があった。

例年より早い降雪に悩まされたが、記念碑もはっきりと見ることができた。
同行してくださった遠別町教育委員会の職員様に感謝申し上げます。

明けましておめでとうございます

何時も当ブログをご覧くださり有難うございます。
そして、新しい年(平成29年)が始まりました。昨年は大変お世話になりました。

現在は札幌市内で働いていますが合間をみて道立図書館に通い詰めています。

今年もあちこち足を運びたいと思っています。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

増毛町歩古丹 S氏の証言

私は昭和16年に歩古丹の日方泊というところで生まれた。
歩古丹は漁業が中心であったが、畑も作っていた。段々畑みたいになっているところが、畑の名残である。

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集落風景 畑跡を望む

昭和22年に歩古丹小学校へ入学した。児童数は10人くらいいたと思う。夏場だけ通学していた子供もいた。
担任は、入学から卒業までずっと一緒の先生であった。先生(天内先生)は、当時50代くらいでよぼよぼした感じであった。

学校に運動場(グラウンド)は無かった。教室・職員室・トイレと棟続きの先生の部屋(教員宿舎)であった。運動場が無いので運動会も無く、学芸会も無かった。運動会は私が卒業して10年後くらいに開催された(注1)。
その頃の子供の遊びは、夏は木登り、秋はブドウをとっていた。冬になれば雪の中を漕いで遊んだ。

集落の人々が学校に寄るときは「フナダマさん」(船の神様)のお参りのときであった。お参りの後は一杯飲んでいた。

戦後まもなくの頃、ある子供が漂着した爆弾を拾ってストーブに入れて爆発し、亡くなる事故がおきた。
戦争中の爆弾と分からないで、ストーブに投げ入れてしまったものだと思う…。

歩古丹の人々は、漁の帰りに増毛へ寄って買い物を済ませていたが、冬は行くことができない。秋に味噌・醤油・米・油といった腐らないものをまとめて買って、自宅に置いていた。
歩古丹に電気が導入されたのは、昭和39年であった。それ以前はランプ生活だった。

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歩古丹硫黄鉱山施設跡

歩古丹の硫黄は昔から採れた。俺らも、親父も採ってきた硫黄を火に入れて溶かし、柾葺屋根に塗っていた。
このレンガの建物は硫黄鉱山の施設で間違いないが、一度も使われなかった。硫黄を運ぶ術や採算が採れなかったからである。

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昭和40年5月新築の歩古丹小学校校舎

現在ある歩古丹の校舎は昭和40年5月に新築されたが、学校が建つ前は年代さんのニシン番屋があった。
新しい学校は土地が狭いことから広場(グラウンド)が無く、子供たちは体育館で遊んでいた。学校前の海岸にある船着場は年代さんのものだ。
学校が閉校になる直前の子供は猪股、中村さんしかいなかった。
その時の校長である松本先生は当時50代であったが、集落のためにバリバリ動く先生だった。

学校の近くには寺があり、お坊さんがいた。宗派には拘らず、よくお参りしていた。
併せて、お葬式は増毛市街まで行ったが本当の昔(明治時代)は、ここで野焼きをしていたと聞いたことがある。墓石は無かったので玉石を置いていた。
また、学校から見て増毛方面の山に神社(稲荷神社)があった。歩古丹の集落が無くなる前に増毛町内の三吉神社に合祀され、三吉神社の例大祭のときに歩古丹の神社祭も一緒に行ったが、今は厳島神社に合祀されている。


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学校前の海岸に残る年代さんの船着場

中村市郎さんは歩古丹の村長さんであった。小柄だったが元気があった。集落のために尽力したので叙勲を受けていたと思う。中村さんの記事で、明治時代に津波が来て30戸流出…とあるが、これは山津波(がけ崩れ)によるものだ。私も明治の山津波で30戸埋没した話は聞いたことがある。(注2)
歩古丹は確かに、津波が押し寄せたこともあったが土地が脆いので、建物は石垣の上に建てていた。

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集落風景。写真中央部の瓦礫は中村家跡。

私は昭和43年に増毛市街へ転出したが、この頃に残っていた世帯は桜井(2軒)、川口、猪股、中村の5軒だった。

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年代さんの船着場より学校跡を望む。上部の橋(望洋橋)は現在の国道231号である。

歩古丹集落に暮らしていた世帯は次のとおりである。
括弧で番屋と書いているものは、番屋の名称である。

佐藤、中村、鈴木、木村、川口、桜井、紀ノ国、猪股(番屋)、年代(番屋)、紀本(番屋)、同島(番屋)

(注1)歩古丹小学校の運動会は佐々木校長が赴任した昭和37年から始まった。
(注2)北海道新聞(夕刊)昭和46年3月15日付「゛部落消えても私はがんばる"増毛町歩古丹に一人で残る中村市郎さん」の記事に『明治42年12月8日、大津波が押し寄せて部落全戸が流失。またそのあと大正3年3月18日に今回閉校した歩古丹小学校すぐ裏の山がくずれて8戸が埋没、一瞬のうちに13人が死亡した大惨事などもよく記憶、部落と生死をかけてきた。』とある。

写真 平成28年4月25日・9月4日撮影
聞き取り調査 平成28年10月9日 増毛町にて

聞き取り調査にご協力していただきました増毛町役場様に感謝申し上げます。

参考文献
北海道新聞1964「六人が元気いっぱい 歩古丹小で第三回運動会」『北海道新聞』昭和29年6月29日版
北海道新聞1971「゛部落消えても私はがんばる"増毛町歩古丹に一人で残る中村市郎さん」『北海道新聞』昭和46年3月15日版
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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