スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

浦河町女名春別 S先生の証言

浦河町女名春別は、戦後開拓集落で「学校跡がある廃村」の一つである。

今回、筆者の中学時代の恩師が女名春別小中学校で勤務していたことを知り、19年ぶりの再会と聞き取りを兼ねて
記録したものをまとめた。

私は、昭和36年4月より昭和38年4月末まで女名春別中学校に教員として赴任した。

CIMG8465.jpg
集落風景。女名春別小中学校までの道中

大学を卒業した新卒であったので、面接官(女名春別小中学校校長 N先生)から「景色もいいところで何も荷物はいりません。体一つできてください」と言われ、そのまま引き受けた。
採用が決まり、浦河町の市街地から三輪トラックで上杵臼開拓農協まで乗せてもらい、女名春別までは徒歩で移動した。

CIMG8482.jpg
集落風景。川を渡った対岸に家が点在していた。

赴任した頃の女名春別は、電気・水道が通っていなかった。川の淵を掘ると水が湧き出てくる。この水を溜めて米とぎや洗面をした。
一番びっくりしたのが、ある日溜水で洗面しようとしたらカエルの卵があったことだ。私は美瑛町出身なので農村での生活は分かっていたが、カエルのタマゴには流石に驚いた。
女名春別には週1回、行商が来ていた。パンといった食料品のほかに新聞も取り扱っていたが、新聞は1週間遅れであった。
行商の買い物に間に合わなければ、上杵臼にある開拓農協(上杵臼開拓農協)まで買いに行った。夏場は刈分道路なので道路状況は悪かった。反面、冬は造材の道がついていたので歩きやすかった。

CIMG8485.jpg
集落風景。この先に学校があった。

私は中学の担当であったが、N校長は国語と音楽を教えていた。
校長が出張で不在になると私が9科目すべて教えることとなった。校歌はN校長が作詞・作曲したもので(年度不明)、校章・校旗はない。

CIMG8472.jpg
学校跡地を示す記念碑。

私が女名春別に赴任してから、学校風呂を作った。それまで、子供らは川で水浴びをしていたが冬は水を含ませた布で体を拭くのがせいぜいだったと思う。
学校医風呂は校長住宅と、教員住宅の間に設けた。
ところが、水汲みが問題となり水汲みは自分たちで、お湯を沸かすのは当番で決めていた。

CIMG8473.jpg
教員住宅。閉校後は「楽古山荘」として転用された。

運動会は、集落の一大行事であった。女名春別には神社が無かったので学校が中心であった。子供だけでなく、大人や教員も入り混じっていた。焼酎を飲んで参加したので、酔いもよくまわった。
子供たちは殆ど親の手伝いをしていたが、休日は縄跳びやケンケン、釣り(ヤマベ)をして楽しんだ。

へき地の学校に赴任してよかったことは、素直な子供たちと接して教育の原点や子供の気持ちを教えられたことだ。
後に、都市部の学校へ赴任したときに塾で予習してきた子供や、非行へ走る子供とも向き合った。

その反面、大変だったことは情報が入ってこないことや万が一のことであった。
情報源はトランジスターラジオであったが、山間部なので雑音が入り混じりよく聞こえない。
新聞も前述したとおり、週1なので他校の同僚と会うときは辛かった。

また、昭和36年12月に風邪を引いてしまうが無理をして授業を続けた。
終業式の日、オルガンで校歌を演奏中に意識を失い、集落の住民が上杵臼まで運び、浦河市街地の病院に運び込まれた。
気がついたのは年が明けた1月1日。親戚中が集まって何事かと思ったが、後で聞くと肺炎を起こしていた。

女名春別では現金よりも物のほうが価値があった。その為、給料が出ても現金を見たことが無かった。校長住宅で下宿していたときは、月6,000円であった。

集落の副産物として、シイタケが取れた。シイタケを乾燥させて売り込み、売り上げたお金で集落の住民とトラックに乗って海水浴に行った。ほかに、エンジュも取れたので中学生らと一緒にエンジュを採りにいき、バットの原材料として材木屋に売ったこともある。
家は学校の傍に1軒、その下手に1軒。学校の対岸に吊橋があり、渡った先の川沿いに人家が点在していた。

電気は昭和37年秋頃に導入されたが、電化の導入と同時くらいから転出者が現れ始めた。
電化以前はランプ生活だったので、ランプのほや磨きは子供たちの仕事であった。PTA会長は、ずっとOさんであった。

昭和38年4月に浦河市街の学校へ転出し、一緒に勤務したN校長は、様似町に転出していった。
学校関係の写真も幾らか持っていたが、生憎教え子に渡してしまったので手元には無い…。


聞き取り日時 平成28年6月18日 旭川市内
写真       平成28年5月30撮影

美唄市東美唄 S氏の証言

美唄市東美唄は三菱美唄炭鉱で栄えた地域である。
今回、昭和30年頃より三菱美唄炭鉱に入社したS氏の証言を織り交ぜて、三菱美唄炭鉱について紹介する。
003_201601020744138d3.jpg

私は昭和14年に美唄町(現 美唄市)で生まれた。美唄国民学校、美唄中学校を卒業して少し経った昭和30年頃だったと思うが、三菱美唄炭鉱に就職した。
当時は中学を卒業したら集団就職で本州へ行くか、自衛隊か炭鉱しか選択肢がなかった。
学校には1クラス40名位いたが、高校進学者は数名程度であとは全員就職であった。

三菱美唄炭鉱に就職して、私は「工作機械課」に配属された。
「工作機械課」というのは4~5人1個チームで、坑内で使う機械類のメンテナンスを行っていた。
賃金は一番安かったが、残業で稼いだ。
炭鉱の仕事で一番賃金が高いのは採炭であったが、身体が小柄であったので採炭は出来ないと思った。
16年勤務したが、ずっと二坑のみであった。

CIMG0910.jpg
当時、私は我路の沢に居住していたが二坑で勤務する炭鉱マンは全員、旭台に住んでいた。

仕事が終わると自宅で宴会をするか、呑みに我路町へ出かけた。
作業中、いつ事故で死ぬか分らないから、仕事が終わったらよく飲んだ。
我路町よりも先に宮の下という地区があったが、そこは寿司屋、雑貨屋、食堂2軒、酒屋など10軒連ねていた。
酒屋の一角には角打ちが設けられており、焼酎の盛切りを呑むことができた。

ただ、宮の下は食事に行くような感覚で行ったので、呑みに行くのは我路町へ行くことが多かった。
旭台や常盤台など奥に住む炭鉱マンは、近道といって各地区の沢沿いに人ひとり通れるくらいの道路を往来していた。
行きは徒歩だが帰りは我路町にあったタクシー(昭和ハイヤー我路営業所)で帰宅した。

常盤台にも親戚が住んでいたので、何回か行った。常盤台は1区・2区・3区と分かれており、学校は3区にあった。
学校周辺(常盤台3区)のほうが店や飲み屋も軒を連ねていたので、一番賑やかだった。
いつぞや話していた「第三立坑」の櫓についてはすまないが分からない…。

CIMG0867.jpg
番町(現 スキー場)は炭鉱の職員住宅が建ち並んでいた。番町の頂上からさらに奥にも炭鉱があったが、私が入社した頃は既に閉山していた。

私はその後三菱南大夕張炭鉱へ配置換えとなり1年弱、夕張市南部菊水町に居住していた。
美唄のニ坑から3~400人くらい配置換えになったと思う。新鉱開発も行われたが、私はそこまで詳しく分らない。

※写真は平成18年10月28日・平成20年4月4日探訪時のものである。

祖父 成瀬政夫と大夕張

随分昔であるが、筆者が「北海道の建物」という廃墟サイトを運営していた頃「祖父の戦争体験」というコーナーを設けていた。
当時は祖父の戦争体験を断片的に記していたが、今回改めて祖父 成瀬政夫と大夕張(夕張市鹿島)の関係について判明した分だけ紹介していく。

大正14年8月2日 東旭川村で三男として出生
昭和13年3月   東旭川村立第四尋常小学校卒業(注1)
以降、家業である農業に従事しつつ青年学校に入校していたため、週2~3回の軍事教育を受けていた。
また、昭和16年に農業関係で夏季間のみ奉公に行っている。

昭和16年12月8日 大東亜(太平洋)戦争開戦

開戦に伴い石炭の需要が増し、挺身隊が結成され諸橋松太郎(注2)を団長として炭鉱へ出向。
政夫は当時、東旭川挺身隊の一員として大夕張炭鉱(夕張市)へ入山していたが、その時の新聞記事を紹介する。

近郊だより 東旭川 
「◇石炭確保挺身隊出発 東旭川村では去る12日石炭確保挺身隊一行が部落連合会長村役場書記に引率され昭和電工、三菱礦業所竝に大夕張3方面に出発した。」(『北海道新聞旭川版』昭和17年12月15日版)

CHC0gXlVIAEdMZ5.jpg
感謝状は既に手元にないが、幸いデジカメに撮っていたので掲載することができた。

感謝状の文面にある『挙国石炭確保運動』とは、昭和17年10月3日に発布された運動のことで企画院・商工・内務・農林・逓信・鉄道・厚生及び石炭統制会、産業報国会の共催である。
この運動の特徴として    ①月別の増産目標の設定
              ②企業最高幹部の陣頭指揮を通じての確保
              ③昭和18年度以降の出炭計画の基礎工作を期した ことが挙げられる。
昭和18年3月まで運動が続けられたが、その後も
『挙国石炭確保激励期間』(昭和19年1~3月)
『炭鉱出炭力増進運動』(昭和19年4~9月・10月~20年3月)
『決戦必勝石炭増産運動』(昭和19年10~12月) の3つの運動が行われた。

下山後、祖父の軍歴について北海道保健福祉部福祉局 福祉援護課に照会して貰ったところ、以下の経歴が判明した。

昭和20年2月 1日(二等兵)現役兵として高射砲第141連隊に入営
    ~7月12日 高射砲第141連隊にありて大東亜戦争防衛勤務に従事
     7月 ○日 第91師団防空隊に転属を命ず
     7月13日 転属のため室蘭出発 同日、滝川着
            同日、第6中隊に編入
     7月16日 滝川発 同日、旭川着
     8月 1日 (一等兵)
     8月15日 独立高射砲第68大隊に転属 同日、第2中隊に編入
     9月 3日 復員
     9月 6日 帰休除隊
昭和21年6月 15日 現役満期  

305766_198618403548716_310064841_n.jpg
復員時の集合写真(撮影時期不明・昭和20年9月?)

337361_198339563576600_553310716_o.jpg
戦後、冬山造材に従事する政夫(年代不明・昭和20年代頃?)

戦時中の大夕張関係について、かなり前に山影静子氏に問い合わせをしたことがあったが、そのときは「申し訳ないが、あと10年早かったら聞くことができたのに、当時を知る人が亡くなられてしまい聞くことができなかった…」と云われてしまった。

戦後、家業である農場に従事。
昭和25年春 結婚。
平成12年12月1日 逝去(享年75)

祖父の没後、住んでいた祖父の家を解体するため「欲しいものがあればもっていっていい」と許可を得て上記の感謝状を持って行った。
感謝状は永らく保存していたが、筆者の転居のため手放して某博物館に寄贈した。
今回の調査に当たり、北海道保健福祉部福祉局福祉援護課様に感謝申し上げます。

(注1) 後の旭川市立第四小学校(平成18年3月31日閉校)
(注2) 諸橋松太郎は東旭川村の有力者であった。

参考文献
北海道新聞1942「近郊だより 東旭川◇石炭確保挺身隊出発」『北海道新聞』昭和17年12月15日版
根津知好1958『石炭国家統制史』財団法人日本経済研究所
N・K氏書簡(2007年)
北海道保健福祉部福祉局福祉援護課グループ2016『成瀬政夫様の軍歴』北海道保健福祉部福祉局福祉援護課援護グループ

歩古丹硫黄鉱山のこと

増毛町歩古丹(平成28年4月25日再訪)

増毛町歩古丹は既に当ブログで取り上げた。
今回は、歩古丹の謎を解明するための調査である。
それを列挙すると① 歩古丹小学校旧校舎の位置
        ② レンガ状の構造物 の2点である。
特に② レンガ状の構造物はHEYANEKO氏とA.D.1600氏の調査時に判明したものである。
筆者に問い合わせが来たが初耳であったので、返事が出来なかった。
問い合わせから1年経ち、平成28年4月にA.D.1600氏の案内で現地へ足を運んだ。
案内されたレンガ遺構を写真に取り、後日増毛町役場へ問い合わせの手紙を出したところ、役場のお力添えにより歩古丹出身者から聞き取りを行うことが出来「硫黄鉱山の跡ではないか」という回答をいただいた。

硫黄鉱山の確証をとるため道立図書館で調べた結果、硫黄鉱山施設の一部で間違いないことが判明した。
これより以下、該当する新聞記事を紹介する。

本格的に開発 雄冬・岩老の地下資源
「増毛=硫黄、かつ鉄鑛、鉄平石など幾多の鑛石が数知れず眠る岩老 雄冬一帯の地下資源は、地下資源開発局によって太鼓判を押されたが雄冬で鉄平石、岩老で硫黄の採鑛しているのみなので町でも近く本格的な資源開発に乗り出す事になったが千代田鑛業株式会社=札幌支店札幌市北11条東3丁目=が融雪を待ち硫黄の採鑛に乗り出すことになった。千代田鑛業では昨年8月岩老村歩古丹に硫黄が流出しているのを発見道庁係官に依頼して調査をすすめていたものであったが近く再調査を行って結論を出し融雪と同時に採する鑛事になったもの」(『留萌タイムス』昭和28年2月22日版)

岩老硫黄鑛開発問題 係員が現地を調査 部落民の反対空気も相当薄らぐ
「増毛=地下資源開発で、クローズアップされた岩老硫黄鉱山及び融雪早々採掘される予定になっている歩古丹鑛山(千代田鑛業)に地元漁業者からニシン漁に影響ある…と横槍が入り、漁協組でも、これを重視町に協力を依頼して札幌通産局及び道庁に反対陳情書を提出し、このほど通産省札幌鉱山保安監督部白瀬監督班長、同古川技官、道庁浜島技師、留萌支庁高山技師など現地を視察し実情調査を行うとともに附近海水を分析試験のため海水を持って帰札。その後有害、無害の結論を出すことになった。なお歩古丹の鑛山は4月に千代田鑛業がボーリングを始め埋没量など調査することになっており、もし採掘するにしても数カ月後に始めるというから今年のニシン漁には関係なく、また岩老鑛山も4,5両月は休業することになっているので、直接関係はないが、しかし従来まで操業し鑛泉をダムに溜めて石灰中和を行って海中に流失した鑛泉が海草類に影響を及ぼしたかどうかが問題のかぎを握ることになるので、海水分析試験の結果が注目される。いずれにしても来町監督官は漁業に支障のないよう地元と緊密な連絡をとって問題をおこさぬようにするというから今後は再び漁民が憂慮するような問題にならぬよう措置されるものだと思われる。」(『留萌タイムス』昭和28年3月21日版)

歩古丹は部落民も賛意表す 但し四項目の条件付
「歩古丹一帯の地下資源開発として硫黄の試掘精錬が千代田鑛業株式会社(本社東京)によって行われることになったため同会社では事前に地元部落民の諒解を求めるために相談した結果、部落としては一時は漁族等に影響するという点から反対したが調査の結果、この懸念が薄れたので、国家的重要産業であり、殊に北海道開発のため道民として双手をあげて協力すると大体次の但し書をつけて部落会長代表中村市郎氏外10名から千代田鑛業株式会社宛送付した。
一、飲料水は井戸掘によるポンプ取付をなすこと
二、ズリ捨場の設備に対しては現試掘箇所が沢のがけなるため50米内至70米の止め場を設置すること
三、精錬場の設置に対しては釜による周囲の支障なきよう取扱われること
四、今回設置される釜は亜硫酸ガスの発生僅少なる由障害なきことなるも更に留意されること」(『留萌タイムス』昭和28年3月21日版)

しかし、この年の採掘は保留となった。

歩古丹の硫黄鑛 明後年から採掘か
「増毛=岩老の硫黄鉱山に続いて歩古丹の地下資源開発に着眼した千代田鉱業株式会社(札幌市)では昨年から同地の硫黄埋蔵量を調査中であったが現在の価格では安価のため事業として成立たない段階にあるため一応採掘を中止することになった、しかし埋蔵調査量の結果によれば有望であることが明らかに立証されているので採算の面で見透しがつけば直ちに採掘にかかることになっており一応明年度まで中止して30年から本格的採掘に乗り出す模様」(『留萌タイムス』昭和28年7月6日版)

昭和28・29年に刊行された『札幌通商産業局(管内)鉱区一覧』(札幌通商産業局)の「試掘」項目を見ると「千代田鉱業株式会社」の名前は掲載されているが、昭和30年になると千代田鉱業の名前は消えている。
従って、歩古丹の硫黄採掘は試掘のまま中止された可能性が高い。

CIMG7830.jpg
今も現存する歩古丹小学校校舎。
校舎は昭和40年5月に新築落成し、移転してきたものである。

CIMG7837.jpg
行けそうな所から急斜面を下り、歩古丹小学校校舎へ辿り着く。
しかし、目的は違う。

CIMG7843.jpg
足元が悪いが、この時期は草木も生えていないので楽である。

CIMG7844.jpg
少し広がった場所に出た。
推測の域だが、移転前の歩古丹小学校跡地と思われる。

CIMG7845.jpg
集落の風景。
人々が暮らしていた痕跡は朽ちかけた電柱と、瓦礫、そして学校である。

CIMG7853.jpg
A.D.1600氏の案内で「こっちです」と云われ、云われるまま動く。
平地が広がっているが、かつては家屋が建ち並んでいた。

CIMG7856.jpg
そして、辿り着いた。
歩古丹鉱山の一部施設である。

CIMG7859.jpg
ちょっと登って反対側から撮影した。
本格的な採掘に至らなかった理由は不明のままである。

CIMG7860.jpg
レンガ遺構の背後には止め場の石が残されていた。

今回の調査に当たり、情報を提供していただいたHEYANEKOさま、A.D.1600さま、増毛町役場の職員さまに感謝申し上げます。
歩古丹鉱山は、調査を続行します。

参考文献・引用資料

留萌タイムス1953「本格的に開発 雄冬・岩老の地下資源」『留萌タイムス』昭和28年2月22日版)
留萌タイムス1953「岩老硫黄鑛開発問題 係員が現地を調査 部落民の反対空気も相当薄らぐ」『留萌タイムス』昭和28年3月21日版)
留萌タイムス1953「歩古丹は部落民も賛意表す 但し四項目の条件付」『留萌タイムス』昭和28年3月21日版)
留萌タイムス1953「歩古丹の硫黄鑛 明後年から採掘か」(『留萌タイムス』昭和28年7月6日版)
札幌通商産業局1953『札幌通商産業局(管内)鉱区一覧』札幌商工協会
札幌通商産業局1954『札幌通商産業局(管内)鉱区一覧』札幌商工協会

稚内市三井沢

稚内市三井沢(平成28年5月1日探訪)

稚内市三井沢は炭鉱集落であった。

昭和15年 三井栄一が三井砿業宗谷炭砿を設立した。
当時は主に、金山組に所属していた朝鮮人によって採炭されていた。
やがて終戦を迎え、樺太(サハリン)からの引き揚げ者が炭鉱に入っていった。
昭和21年3月 宗谷炭砿株式会社と変更。中村還一が社長に就任すると規模拡大され、三井沢一帯は炭鉱住宅、配給所、商店、学校ができた。
昭和23年 三井沢-曲淵駅を結ぶ送炭用の索道が架設された。索道は石炭を送るだけではなく、食糧、坑木、手紙等と云ったものも送られ、連絡機関の一面も持ち合せていた。
昭和38年12月 選炭工場付近からの火災が切っ掛けとなり、炭鉱は閉山。学校も閉校した。

学校の沿革は以下の通りである。

昭和20年11月19日 曲淵国民学校三井沢分教場として開校。
昭和21年 7月 1日 三井沢国民学校として独立。
昭和22年 4月 1日 三井沢小学校と改称。
昭和27年 4月 1日 三井沢中学校併置。
昭和39年 6月10日 閉校。

宗谷炭砿閉山関係の記事を取り上げる。

18年のヤマに別れを告げ 宗谷炭砿閉山 明日への幸せを願い全従業員が出席して解散式
「〝幸せは俺らのねがい……〟-会場に響く〝幸福の歌〟の合唱。だが皆んなが未来の幸福な生活を願って頑張りながら、遂に幸せは訪づれなかった。三井沢にある宗谷炭礦(田岡義彦社長)は18年の歴史をとじ事業閉鎖の止むなき状態に見舞われ、15日には悲しみの閉山式を行った。そして同時に同礦と共に歩んできた同礦労仂組合、職員組合も解散大会を開き、心尽しの料理で18年間の過去を振り返り、お互いに新しい道で幸福を掴もう-と語りかけていた。
同礦があらゆる方面からの融資によって再建に進みながら遂に再建できなかったのは昨年暮に突然襲った選炭機の焼失によるもので心臓部を失い機能は全く停止した。そしてヤマ元では遂に再建をあきらめ、今後の方策を考え出し、同礦の政府買上げに努力をはらったこの結果〝保安買上げ〟として正式に決った。
同礦は現在までに賃金未払いが約6000万円。これに対する保安買上げ価格は1500万円。苦労しながら頑張った結果の報いとしては極めて冷たいもの。だが、どうしにもならない。いまは新しい道に希望を持って静かに毎日を送っている。
閉山式にはヤマ元にいる従業員全員が出席し、田岡社長から閉山への経過、そして深く従業員に詫びる挨拶があったが、従業員は誰をもウラんではいず、予想以上に明るい表情だった。このあと職員、労仂組合の解散を決議、今後の幸福を夢見ながら〝幸福の歌〟を合唱。精神的にも一応のケリがつき、ヤマと共に夫と共にして来た奥さん達のサービスでささやかながら酒宴に入り往時を懐しみ、明日からの道について語りながら〝お互いに頑張ろう〟と約束し合っていた。なお同礦従業員の就職先はそれぞれ別だが、ヤマの男はやはりヤマを選ぶのがほとんどで、その約半数は5月から着手される猿払新坑開発に従事することになっている。」(原文ママ)(『日刊宗谷』昭和39年3月17日版)

閉山による最後の卒業式の記事は以下の通りである。

閉山で最後の卒業式 三井沢小中校 みんなさびしそう 校長先生が励ます〝転校後もシッカリ〟
「【稚内】宗谷炭鉱は18年間の歴史を閉じ15日付で閉山したが、その閉山の炭鉱地区の市立三井沢小中学校でヤマを離れる子供たちの最後の卒業、終業式が行われ、先生も生徒もなごり惜しげだった。
三井沢小中は、国鉄天北線曲淵駅から5,6キロ奥に入った宗谷炭鉱炭住街にあり、炭鉱員の子供たちのための学校。炭鉱が開鉱した21年10月にまず小学校が三井沢国民学校として開校、中学校は28年に三井沢中学校として設けられた。小、中学生が同じ校舎で学ぶちっちゃな学校だが、炭鉱の18年間の歴史とともに歩み、炭住街の〝文化センター〟でもあった。
しかし、炭鉱が閉山となり、ほとんどの鉱員が5月頃までにヤマを去ると、学校はもはや閉校するほかなさそう。市教委ではまだ態度をはっきりしていないが『閉校するか、それとも規模を縮小して曲淵校の分校にするかどちらか』といっており、いずれにしても子供たちにとっては、これまでのかたちの三井沢校はなくなるわけ。
紅白の幕を張りめぐらした講堂に集まった小学生65人、中学生31人。それに父兄たちはみな『これが最後の卒業、終業式だね』とさびしそう。しかもこの1年間すでにヤマを去った子供たちは51人にものぼり『いっしょにこの式を終えたかったなあ』と生徒たちは先に去った友だちのことをなつかしげ。
大谷幸一校長が『別の学校に行っても、みなくじけずにしっかり勉強してください』と励ましのことばとともに小学校を卒業する久保節子さんら11人、中学校卒業の川村努君ら14人に卒業証書を手渡し式場は水を打ったような静けさ。おさない子供たちも楽しかった毎日に思いをはせ、その悲しみをジッと小さな胸に折りたたんでいるようだ。」(原文ママ)『北海道新聞 留萌・宗谷版 昭和39年3月18日版』

また、同日のコラム「拡大鏡」にも取り上げられているので転載する。

ヤマとお別れに雪像群
「〇…校舎前の広場に雪像群が並んだ。『軍艦』『考える人』『クマ』などいずれも3メートルから4メートルはあろうという大きなものばかり。閉山した宗谷炭鉱のマチの三井沢小中学の全生徒96人が、おとうさん、おかあさんといっしょにヤマをおりることになり、これで学校ともお別れ、と体育館の時間たん精込めて作ったのが、この雪像群。
〇…3月はじめからとりかかってさきごろようやく完成、15日の卒業式に間に合わせることができた。式に出席した浜森市長、赤川教育長はじめ、来賓、父兄たちは『りっぱなものですね、子供たちもこの雪像のように大きく、たうましく成長してほしいもの』とちょっとシュンとした表情だった。」(原文ママ)『北海道新聞 留萌・宗谷版 昭和39年3月18日版』

CIMG8024.jpg
「三井沢」の地名が残る林道の表示板。
電柱の標識にも「三井沢」とあるので、名前は今も残っている。

CIMG8025.jpg
林道風景。
しかし、集落や学校はこの先には無いので、引き返す。

CIMG8026.jpg
林道より先の風景。
この先に集落があった。

CIMG8027.jpg
先へ進むと、道路左手が湿地帯と化している場所を見つけた。

CIMG8029.jpg
宗谷炭砿の遺構が残っている。
夏になれば、草木に覆われて発見は難しい。

CIMG8033.jpg
同じく、炭鉱の遺構。
残されている遺構は、索道ではないかと思われる。

CIMG8039.jpg
折角なので、宗谷炭砿のズリ山を登ってみる。

CIMG8038.jpg
ズリ山頂上。
遺構関係は見当たらなかった。

CIMG8031.jpg
ズリ山より周囲を俯瞰する。

CIMG8019.jpg
先に進むと、道路右手にコンクリートの遺構を見つけた。

CIMG8021.jpg
位置的に考えると、学校跡地と思われる。
その根拠として
①宗谷炭砿が稼動していた時代を考えると、コンクリートが使われていた建物は炭鉱施設を除くと公的な建物に限られる。
②地形図と照合すると、文マークの位置が合致する。 ことである。

CIMG8022.jpg
記念碑も建立されていないのにもかかわらず、学校の基礎が残っている。
真夏なら、発見は困難である。

CIMG8023.jpg
反対側より。
植樹されたと思われるマツの木も、数本残っている。

CIMG8020.jpg
学校より奥の風景。
学校より奥は、道路左手に墓地があった。

炭鉱や集落の存在を知らなければ、ただの道路である。
しかし昭和30年代後半までは、学校も置かれていた集落が存在した。

引用・参考文献
稚内市史編纂室1968『稚内市史』稚内市
稚内市編さん委員会1999『稚内市史第2巻』 稚内市
北海道新聞1964「閉山で最後の卒業式 三井沢小中校 みんなさびしそう 校長先生が励ます〝転校後もシッカリ〟」『北海道新聞留萌・宗谷版』3月18日
日刊宗谷1964「18年のヤマに別れを告げ 宗谷炭砿閉山 明日への幸せを願い全従業員が出席して解散式」『日刊宗谷』3月17日
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。